-----------------------------------------------------------------------------------------------

2011年3月10日木曜日

日日是好日

またまたTamaki先生のSivanandaクラスに参加。
途中で眠ったりなんたりして、とても心地良かった。
やっているときには汗なんて全くかかないのに、終わってスタジオを出るころにじわじわ汗が出てきて足の裏からかーっとアツいものがやってきた。 
外の寒さはもちろん、気になることは何もない安定した清々しさだった。
 
・・・ これこれ♪
  
来週~再来週くらいに掲載されると思うけど、「 笑ってヨガとも 」というサイトでリレーブログを書いた。
テーマは、ヨガをもっと楽しむための方法。
わかりやすく!端的に!とか色々考えてしまって、結局考えすぎてわかりにくくなってしまっている。。
  
ただこの、これこれ♪、を選択すればいいって単純なことなんだと、再再再再々・・・・・確認できた楽しいヨガの時間だった。 
ただそれだけなのに。
私の脳みそは、考えることができるがために欲張りになって、案外簡単なことのほうができなかったりする。
    
カルマは繰り返す傾向にある。
私は考えすぎて、何度も同じところで立ち止まることを繰り返しては、あーまたやっちまってた、、を繰り返している。
  
そのリレーブログにも引用したのが、この本、「日日是好日」。
友人から「ヨガだよ」と渡されたお茶の本。 
なんのこっちゃっ茶ーと思いながら読んだが、まさしくヨガと同じ学びの本だった。
リレーブログで上手に引用できなかった気がするのでメモ。
  
ベジたこ焼き。こういうひっくり返すものが苦手。パンケーキとかね。大好物なのに。。
  
「 会いたいと思ったら、会わなければいけない。
好きな人がいたら、好きだと言わなければいけない。
花が咲いたら、祝おう。
恋をしたら、溺れよう。
嬉しかったら、分かち合おう。
幸せな時は、その幸せを抱きしめて、百パーセントかみしめる。
それがたぶん、人間にできる、あらんかぎりのことなのだ。
だから、だいじな人に会えたら、共に食べ、共に生き、だんらんをかみしめる。
一期一会とは、そういうことなんだ・・・。 」
  
ブランジュリタケウチさんのクロックムシュー
おりこうさんぶってナイフとフォークで食べたけどガッチャガチャ。次はがぶっと手でいく。
   
「 茶室が開放されたり、閉じられたりするように、人の心も季節によって変化する。
開く、閉じる、また開く・・・。そのサイクルが【呼吸】のように繰り返される。
 世の中は、前向きで明るいことばかりに価値をおく。
けれど、そもそも反対のことがなければ、【明るさ】も存在しない。
どちらも存在して初めて、奥行きが生まれるのだ。
どちらが良く、どちらが悪いというのではなく、それぞれがよい。
人間には、その両方が必要なのだ。 」
 
ヨガに来ていた方にランチに誘ってもらったよ。
ヴェトナムーン。パクチーフェスティバルーン。
  
「 こんなふうに一心に雨を聴いたことはなかった。雨音の密林の奥深く、分け入っていくような気がした。ドキドキする。生々しくて、なんだか恐ろしい。だけど、もっと先へ分け入りたくなる。私は【耳】そのものになった。
 
 突如、だだっ広い場所に、私はいた。
ここはどこだろう?
私をさえぎるものは何もなかった。
 手順を間違えてはならないという緊張も、抱え込んだままで常に気にかかっている仕事も、今日帰ったらしなければいけない用事も、何もなかった。
 
 自分はもっと頑張らなくてはダメだという思いも、他人から好かれ評価されなければ自分は無価値なのではないかという不安も、人に弱みを見られたくないという恐怖感も、消えていた。
 とてつもなく自由だった。 
 
 こんな自由、今まで知らない。
どこまで遠くに行っても、そこは、広がった自分の裾野だった。
ずーっとここにいたし、どこかに行く必要もなかった。
してはいけないことなど、何もない。
足りないものなど、何もない。
私はただ、いるということだけで、百パーセントを満たしていた。 
  
 【雨の日は、雨を聴きなさい。心も体も、ここにいなさい。あなたの五感を使って、今を一心に味わいなさい。そうすればわかるはずだ。自由になる道は、いつでも今ここにある】
 私たちはいつでも、過去を悔んだり、まだ来てもいない未来を思い悩んでいる。どんなに悩んだところで、所詮、過ぎ去ってしまった日々へ駆け戻ることも、未来に先まわりして準備することも決してできないのに。
 
 過去や未来を思う限り、安心して生きることはできない。道は一つしかない。今を味わうことだ。過去も未来もなく、ただこの一瞬に没頭できた時、人間は自分がさえぎるもののない自由の中で生きていることに気づくのだ。 」
 
パンを食すときは存分に目の前のパンを味わう。

「 雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れるような寒さを味わう。・・・・どんな日も、その日を思う存分味わう。
 お茶とは、そういう【生き方】なのだ。
 そうやって生きれば、人間はたとえ、まわりが【苦境】と呼ぶような事態に遭遇したとしても、その状況を楽しんで生きていけるかもしれないのだ。


京都にいるときは京の味を存分に楽しむ。


 私たちは、雨が降ると、【今日は、お天気が悪いわ】などと言う。けれど、本当は【悪い天気】なんて存在しない。
 雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も【いい日】になるのだ。毎日が良い日に・・・・。


【日日是好日】 毎日がよい日 」


甘いものを堪能したら辛いもんよね、の抜け出せないサイクル。。。
カルマの輪?

「 【目を覚ましなさい。人間はどんな日だって楽しむことができる。そして、人間は、そのことに気づく絶好のチャンスの連続の中で生きている。あなたが今、そのことに気づいたようにね】
 そのメッセージが、ぐんぐん伝わって胸に響く。
 二本の脚ですっくと大地に立って、全身に雨を受け、世界と対峙しているような気がした。
 深く息を吸い、心の中ではっきりと思った。 
 【 今この瞬間の感覚を、忘れずに生きよう!】 」
ふと昔からある小さな店の店内にかかっている古ぼけた掛け軸の文字に気づく。
「 日日是好日 」
 
「 言えばきっと、言葉の空振りになるのがわかる。思いや感情に、言葉が追いつかないのだ。
 だから無言のまま、わが身と同じ大きさのたぎる思いを、ぐっと飲み込んで、座っているしかなかった。そして、出口のない内なる思いに、少し目頭が熱くなった。
 ・・・・・・・・・・・・・ 
 その時、痛いほど思った。人の胸の内は、こんなにも外からは見えない。
 茶道の風景を外から見れば、ただ黙って座っているにすぎない。しかし、見えない場所で、同時に、別のことが起こっているのだ。
 その静けさは濃密だ。 
 ・・・・・・・・・・・・・
 走って誰かに伝えに行きたいような胸の熱さと、言葉が追いつかない虚しさと、言いたいけど言えないやるせなさが、せめぎあう沈黙。
 沈黙とは、こんなに熱かったのか・・・・。 」
 
先生とわたしinリシケシ
 
「 静かに並んで座ったまま、私は、先生と気持ちを共有したような気がした。
 先生は、言わないのではない。言葉では言えないことを、無言で語っているのだった。
 本当に教えていることは、目に見えるお点前の外にある。
 
 言葉で言ってしまっては、伝わらないものがある。

 先生は、私たちの内面が成長して、自分で気づき、発見するようになるのを、根気よくじっと待っているのだった。
 
 本当に知るには、時間がかかる。けれど【あっ、そうか!】とわかった瞬間、それは、私の血や肉になった。
 もし、初めから先生が全部説明してくれたら、私は、長いプロセスの末に、ある日、自分の答えを手にすることはなかった。先生は【余白】を残してくれたのだ・・・・。
【もし私だったら、心の気づきの楽しさを、生徒にすべて教える】・・・それは、自分が満足するために、相手の発見の歓びを奪うことだった。
 先生は手順だけ教えて、何も教えない。教えないことで、教えようとしていたのだ。
 それは、私たちを自由に解き放つことでもあった。 」

次回は美味しくないインド料理だって存分に美味しくなさを味わえるかも。

「 お茶をわかるのに時間制限はない。三年で気づく人も、二十年で気づくも本人の自由。気づく時がくれば気づく。成熟のスピードは、人によってちがう。その人の時を待っていた。
 理解の早い方が高い評価をされるということもなかった。理解が遅くて苦労する人には、その人なりの深さが生まれた 
 どの答えが正しくて、どれが間違っている、どれが優れていて、どれが劣っているということはなかった。【雪は白い】も【雪は黒い】も【雪は降らない】も、全部が答えだった。人はみんなちがうのだから答えもちがう。お茶は、一人一人のあるがままを受け入れている。」
たまにヒルが入っているインド料理だってっ・・・

「 個性を重んじる学校教育の中に、人を競争に追い立てる制約と不自由があり、厳格な約束事に縛られた窮屈な茶道の中に、個人のあるがままを受けいれる大きな自由がある・・・・。
 
 いったい、本物の自由とはなんだろう?
 そもそも、私たちは何と競っているのだろう?
 学校もお茶も、目指しているのは人の成長だ。けれど、一つ、大きくちがう。
 それは、学校はいつも【他人】と比べ、お茶は【きのうまでの自分】と比べることだった。 」

どこに学びがあるかは人それぞれ。

「 この世には、学校で習ったのとはまったく別の【勉強】がある。あれから二十年が過ぎ、今は思う。それは、教えられた答えを出すことでも、優劣を競争することでもなく、自分で一つ一つ気づきながら、答えをつかみとることだ。自分の方法で、あるがままの自分の成長の道を作ることだ。
 
 気づくこと。
一生涯、自分の成長に気づき続けること。
【学び】とは、そうやって、自分を育てることなのだ。 」
インド文化の【それ】の一つがヨガ、日本文化の【それ】の一つがお茶。
 
何度も作者の内なる胸の熱さに共感し、目頭があつくなった。
この本を渡してくれた友人に、ありがとう。
  
この出会いもまた、ヨガが教えてくれた幸せ。
 

0 件のコメント: