こにゃにゃちは。
ちょっと色んな予定が入ってきてて、
買い出しとかにも時間かかるインドだもんで、
時間がない。
おっと、そう、時間って本当は存在しないんでした^^; 概念だけで実在しませんー
おひとり様でぼーっとする時間も、愛してるから、
なんせ書く時間が足りませーん。
とっとと終わらせますね、このエピソード。
はよ書かな忘れる。
最近は、
昨日のことがもう何十年も昔のことみたいに、ぼんやりしてて、
現実味がぜんぜんありません。
昨日会ったあの人は、本当にいたんだっけ?夢だっけ?どっち?
という感じ。
たまに、脳みその病気かなーって思っちゃうほど記憶が薄い^^;
記憶という形で、この瞬間、思考が起こってるだけなので、
過去に現実味がないのは、当たり前のことかも。
過去の思い出を保持する人物が、どこにもいないいのですから^^
ここ南インドのタミルナードゥ州、聖なる山アルナーチャラのある、
ティルヴァンナマライは、日本でもおなじみの(ちがう?)聖者、
ラマナマハルシで有名な場所に御座います。
ですので、
世界中からスピリチュアルシーカー(精神性を探求する人々)が集まって参ります。
短期の旅行者にはあまり知られてはおりませんが、
ラマナアシュラム以外にも、聖者のアシュラムが幾つかあり、
今でも、
ジーヴァンムクタ(肉体を持ちながら悟った人)として崇拝される聖者もおり、
聖者たちのサマーディ(お墓)など、パワースポットがたくさん点在しております。
探求者たちは、各々の性質にあったアシュラムや聖者の元で、
思い思いに修業に時間を費やしています。
外人がたくさん集まる今のシーズンは、
「サットサン(聖なる集い)」があちらこちらで行われており、
日本ではあまり知られてないかもしれませんが、
ワールドツアー(アイドルかっ^^;)を行っているような有名な覚者もやってきては、
サットサンを開催する、そのようなことが日常的に起こっています。
以前のK氏は、
「いや、私はバガヴァン(ラマナに敬意を示して、ここでは皆がそう呼びます)の
教えだけで十分。アルナチャラが先生だ。余計な情報は心を惑わす」
と頑なに、サットサンなどといったものに参加したこともなかったんですが、
前ブログの通り、
もはやこのK氏、死にぞこないの役立たずと化してきておりますんで、
言われるがままに、ひとつのサットサンに行ってみたのでありました。
単にヒマだったのと、
自転車借りて、るーらるーら♪したいなー良い季節やもんなー♪っていうのに
口実をつけたかっただけかも。
予想通り、
自転車での、サドゥストリートドライブは楽しくって仕方ないものでした(^^)
陽気なサドゥーたちに、
なましヴぁーや~ はりおーむ
ニコっとすると、向こうもニッコリ。
これも南インドの好きな風景のひとつ。
家もなく、道路で寝ていたって、
食いっぱぐれないし、悠々と過ごせる、これは南のあたたかい空気、(今けっこー寒いが、、)
豊かな土地柄なのかなーなんて思います。 事実は知らん。わしはインド人ではない。
さておき。
それはもうご機嫌で、覚者の元へたどり着いたK氏、
その覚者と聖なる集まりをするその場所は、とても清々しく開放感あふれ、
真白の壁に大きく開いた窓からは、
アルナチャラがどーんと見え、その下には花々が咲き蝶が遊ぶ、
という最高のロケーション。
瞑想キター!
って感じ?(^^)
そう、瞑想って、勝手に起こってるものだったんです。(っていうか全てが、だけど^^;)
だから、
いま私めーそーしてるー してたー とかって出てこない。
瞑想が深い、とか良い瞑想、とかそういう発想がもうないです。
目を開けてても、閉じてても、同じ。
だって全部、同じ! 同じに無意味なんやもん! 笑
例えば、
シフトが起こってから、
生活費かせぐため&ヒマつぶしのパートも、もう瞑想。
瞑想が勝手に起こる。
瞑想する人(私)は存在しないし、
それを観察していたり、気づいたりしてる人もいない、
瞑想しかない、とも表現できるのかも。
この日の悟った人は、
Sharada Maというアメリカ在住のインドの方。
(検索したらヒットします。)
お話を少々と、瞑想、あとは「トランスミッション」(エネルギーの注入みたいな?)
英語は1/3くらいしか聞き取れなかったけど、
Maと座っていると、
頭の中に空白だけが押し寄せてきました(^^)
もはや、思考が起こっても気にならない、
同時に静けさが在るので、
頭の中が空白だろうが何だろうがどっちでもいーんですが(笑)、
やっぱり聖者ってそういうことを(あくまで見かけ上)起こせるのだろうなーと思いました。
はっ
そういえば、その日のハタヨガしてるとき、
すんごい身体、軽かった。
食べたものの消化もよかったような、、、?
因果関係がないから、Maのおかげかは不明ですけど。
あくまで、
前にも書いたように、一時的な体験に意味はありません。
そういう不可思議体験は、
いくつかここで起こりましたけど、意味ないんです。
こないだもありましたけどね、神秘体験。
おもしろいけど、意味ない^^;
だって本当のところ、なんにも起こってないんだもん^^;
だってだって、そもそも体験する人物が不在なんやもーん。 なにも起こり得ない!
そして完璧に起きてる!
頭おかしくなる夢の話で、笑うしかないですね(^^)
目をあけていても、閉じていても、
瞑想状態に導いてくれるっていうのは、心地好かったです。
一時的なものは、シフトになんら関係ないけれど、
心地好いのは好きですよねー 誰でも(^O^)
好き嫌いの好みとか、性格は残ります、シフトが起きても。
K氏もそうだったけれど、
ラマナマハルシなど名だたる聖者のように、
「悟り」って、聖人君主が完成するんだと思っていました。
でも、この自我といエネルギーの消失、エネルギーシフトでは、
聖人になる、といったことはありません。
ラマナハルシと表現されるその人に、起きたことがどういったことか、
わからないので、このシフトと同じかはわかりません。
うざいもんはうざいし、不機嫌なときは不機嫌が起こる、
子供になったみたいな感じ、と表現できるかもしれません。
すぐ忘れるし、むやみに愉快なことが多い、
そういえば、偏見とか決めつけはないかも。。。
この人はこういう人だから、っていう発想は湧かなくなったような、、、
シフト(究極の自由、安心感)とはなんら関係なくても、
良い悪いは存在せず、起こっていることはただ完璧。
「 あるがまま 」
バガヴァンが、こう言うしかなかったことに深く頷けます。
「 あるがまま 」
聖なる人を必死で追い求めて、
自我のエネルギーを強めるエサにしないならば、
悟った人に会いにいくのは楽しい気がします(^O^)
でも別に、自我にエサをあげてもいい(^^)
自我というエネルギーが、今そこで起こっているならば、
それもまた完璧な表現。
ちなみに、
「非二元」の現実において、因果関係はないから、
どんだけ聖者に会おうとも、
エネルギーのシフトが起きるときは起きるし起きないときは起きない。
待つことも、委ねることも、信じることもできない、
自由意思は存在しないから。
なんにも出来んやん^^;
はーい、これも自我にとって残念なお知らせねー
ノートとって肝に銘じてくださーい 笑
もう喜んで死ぬっきゃないなーって開き直ったら、
K氏の絶望は、出てこなくなりました(^^)
そもそも死ぬ人なんて誰も存在しないんだけども 笑
※ この話はすべてフィクションです。
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どうでもいいことなんですけどね、
面白いから、くまりちゃんを上位にやってみて~ 笑
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