なますかーる。こんにちは。
今日はちょっと小難しいトピックについて書こうと思いますので、
興味のない方はスルーしてくださいね。
難しくてなかなか進みません、、、^^;
日本だと絶対!!読めないからティルで頑張ってます!!
私の場合は、ここでの体験を通してじゃないと入ってこない内容と言いますか、、、
これを日本で読んで理解できる方はすでに解脱の次元で世界を見ている、
or 修練を積んで解脱の次元間近の方ではないかな、と思います。
バガヴァーンのヨガについての言及がなるほど、と
思うものだったのでメモついでにシェア。
質問者の知的レベルに合わせ、彼がどこまでをヨガと指し応えているか定かでなく、
おそらく体操部門やプラナヤーマだけを指し、
質問者に受け答え指している場合もある気がします。
それが霊的教えの特徴らしいのですが、時々わかりにくいので、
ヨギーはちょっと混乱するかも、と思いました。
なので最後まで読んだ方が良いと思いますー
でも、バガヴァーンはちゃんとサマディまでの段階もヨーガと指し、
(しかし、彼の言うサマディとラージャヨガの言うそれは別物で、
つまるところ真我探求まで向かってゆく、とのこと。
サハスラーラチャクラにクンダリニが達しても、
チャクラが開くとかそういったことにとらわれてゴールを忘れては意味ないよんって。)
カルマヨーガのこともバクティヨガ、ジニャーナヨガのことも言及しています。
あくまで、わかりやすくまとめてくださった編者の方、
ならびに翻訳してくださった方を介して、
我々の手元に来ているのでバガヴァーンの直接の言葉ではない、
ヨーガを勉強している方は、そのへんも汲み取って読んだ方が良いかも。
彼の教えを理解するのに十分だとバガヴァーンご自身すすめてきた小冊子、
「私は誰か?」が巻末に掲載されていますが、
最初に読んだ時よりも、すんなり入ってきました。
これに彼の教えの全てがあるんだなぁ、と。
第13章 「ヨーガ」の項目は、ヨギー必読、
第21章「カルマ、運命、自由意志」は、
生きるとは何ぞや?死とは?死の先があるのか?と、
真剣に考えてる方には参考になると思います。
自我の一切ない、生ける屍(風呂トイレ以外の時は褌一丁で常に人前に晒されてた人です)
と呼ばれたバガヴァーンの言葉なので納得。
とても納得できるものなので、私はここに来るのだと思います。
特定の宗教観を越えた、包括的な解説で、
客観的にヨーガ体系というものを見れる気がします。
これもまた、彼自身に何の執着もないからだろうと思います。
何度、彼のお写真を見ても、一人の人間として感じられない。
アシュラムの大きなお写真に挨拶して、
目をじーっと見つめるけど、毎日違う表情で違う人のように見えるんですよね〜
私の心の状態なのだろうなーと思いながら、今日はどうですかね?バガヴァーン?
と毎朝うかがってみています^^
叱られる日もあれば許してもらったような日もある、不思議な写真があるのですよー
この章で、
「彼はハタヨーガをその身体への固執ゆえに批判している。」
「プラーナヤーマに対する彼の評価はより高いもので、心を直接制御できない者にとっては有益な助けとなると言った。
だが、概してそれもまた初心者のための訓練と見なしていたようだ。」
「シュリー•ラマナは彼の帰依者たちにクンダリニー•ヨーガを勧めたことは一度もなかった。
なぜなら、それは潜在的に危険なものであり、また必要もないと見なしていたからである。
彼はクンダリニーと呼ばれる霊的な力やチャクラの存在を認めてはいたが、
たとえクンダリニーがサハスラーラに到達しても真我の実現は起こらないと言った。
彼によれば、最終的な実現のためにクンダリニーはサハスラーラを超えていき、
アムリタ•ナーディ(パラナーディまたはジーヴァナーディとも呼ばれる)」を通って下降し、
胸の右側にあるハート•センターに入らなければならないからだ。
真我探求はクンダリニーを自動的にハート•センターに送るため、別のヨーガの訓練の必要はないと彼は説いたのである。」
この記載、目から鱗。確かに。
人助けより真我実現する方が世界の助けになる、
まずは自分を救いなさい、それから世界が何と言うか聞きなさい、
と、なるほどー
↓
「前記以外にもヒンドゥー教のなかには行為のヨーガ、カルマヨーガと呼ばれるもうひとつのヨーガが存在している。
この体系の実践者は非利己的に他者に奉仕することによって得られる霊的進展を目的としている。
『バガヴァッド•ギーター』はそれを高く評価してはいるが、
シュリー•ラマナは概して帰依者たちにこの道にしたがうことを勧めなかった。
なぜなら、それは善い行いをしようとする〝私〟と、助けを必要としている〝他者〟の存在を前提としているからである。
そのため、ある特定の帰依者がジニャーナ、バクティあるいはラージャ•ヨーガの道にしたがうことができないと
彼が見なしたときに限ってそれを勧めたのだった。」
などなどのくだりがあるためか、
けっこうヨガに批判的寄りな人が多いんですよね、ここ^^;
で、ヒンドゥー教のカルマヨガ。
私はその説明にイマイチ納得いかず妥協せず、
カルマヨガと名付けられたヨガ施設で提示されるアレコレをやらないしやってこなかった、
そういう風な運命に乗らされていたのだな、とバガヴァーンの説明により納得しました。
シヴァナンダTTCの説明より、私には腑に落ちるカルマヨーガの説明を
得ることが出来たので、同じ感覚の人は読むと良いかも。
腰痛予防とか股関節痛めないように、浮腫みとり、
などなど健康にも良いし、
ビギナーにとってハタヨーガは瞑想の助けになりますョ。
魂の容れ物である、神様から与えてもらった肉体に、
責任を持たなきゃいけない立場だと考えており、
ちゃんとした保険にも入れないので病院にも行けないってんで、私は今の立場に合わせ身体のケアしています。
去年座りすぎて歩くのも困難なほど足首痛めたから用心してます ^^;
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マノラヤとは、思考の動きを一時的に抑えた集中を意味する。
この集中が止まるやいなや、以前のように古い想念や新しい想念が急激に湧き上がってくる。
そしてこの一時的な心の静止がたとえ千年つづいたとしても、
誕生と死からの解放である心の完全な破壊に至ることはけっしてない。
それゆえ、修行者はつねに油断することなく、
「この体験は誰に起こったのか」、「この喜びを体験しているのは誰なのか」と尋ねなければならない。
この探究なしでは、彼は長時間のトランス状態あるいは深い眠り(ヨーガ•ニードラ)に陥ってしまうだろう。
この段階における霊的修練の正しい指導者の不在がもとで、
多くの修行者が偽りの解放感覚のとりこになって惑わされてきた。
そして無事に目的地にたどり着いたのは、ほんのひと握りの人たちだけだったのである。
{ ヨガニドラが最近、日本で流行ってますが、
バガヴァーンの教え、ジニャーナヨーガの道が向いてる段階にある人達は、
ニドラは必要ないです。
リラックスの方法の一つとして楽しむのはとても良いと思いますが、
きちんとニドラの位置付けをわかっている指導者から教えてもらうことをお勧めします。
本気で自分のエゴとかから解放されたいと考えているならば。
なぜならニドラーに関するバガヴァーンの以下の言及参照。
一時的なエクスタシーやトランス状態は、ヨーガのゴールではありません。
無知を払いのけ真実を照らす智慧がヨーガ。}
心が暗闇のなかで真我と融合した状態がニドラー(眠り)と呼ばれる。
それは心が無知のなかに没入した状態である。
心が意識のなかに没入した状態がサマーディと呼ばれる。
サマーディとは目覚めの状態で絶えず真我のなかにとどまることである。
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心を殺す唯一の方法は、その源を見いだし、それをとらえることである。
そうすれば心はひとりでに消え去るだろう。
ヨーガはチッタ•ヴリッティ•ニロダ(心の活動の静止)を教える。
だが、私はアートマ•ヴィチャーラ(真我探究)を教える。これは実際的な方法である。
チッタ•ヴリッティ•ニロダは眠り、気絶あるいは飢餓状態によっても引き起こされる。
その原因が絶たれた瞬間、想念は再び起こってくる。だとすればいったい何の役に立つというのだろう?
麻痺状態のなかでは平和があり、不幸はない。
だが、麻痺状態が消えれば不幸も再び起こる。
それゆえ、ニロダ(コントロール)は役に立たず、その効果も長つづきしないのである。
では、どうすればその効果が持続するのだろうか?
不幸の原因を突き止めることによってである。
不幸は対象物を知覚することによって起こる。
もし知覚されるものがなければ、
それによって引き起こされる想念もなく、不幸も一掃される。
「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の問題である。聖典や聖者は、
「対象物は単なる心の創造物にすぎない」と言っている。それらは実質的な存在をもっていない。
物質を調査してみなさい。そしてこの表明の真実性を確かめるがいい。
すると、客観的な世界は主観的意識のなかにあるという結論に達するだろう。
それゆえ、真我こそが世界に浸透し、それを包み込む唯一の実在なのである。
そこに二元性は存在せず、それゆえあなたの平和を妨げる想念も起こらない。
これが真我の実現である。真我は永遠であり、その実現もまた永遠のものである。
{疑問や悩みから解放されたい人は、
ラージャヨガで立ち止まらず、
真我探求か明け渡しへ向かいましょってことでしょうか。}
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グルとは真我である。ときおり、人は人生に満たされなくなり、
自分の持っているものに満足ができなくなる。
彼は欲望を満たすために神に祈り、それを通して心は徐々に純粋になっていく。
彼は神を知りたいと願うようになり、世俗的な欲望を満たすよりは神の恩寵を求めるようになる。
そのとき、神の恩寵が現れはじめる。
神はグルの姿をとって帰依者の前に現れ、
真理を教え、さらに彼と親密に交わることによって彼の心を浄める。
帰依者の心は強くなり、内面に向かうようになる。
瞑想によって心はさらに浄化され、わずかなさざ波さえない静寂のなかにとどまる。
その静かな広がりが真我である。
グルは外面と内面の両方だ。外面からは、心が内面に向かうように後押しをし、
内面からは、心を真我に引きこみ静かになるように助ける。これがグルの恩寵である。
神、グル、真我の間には何の違いもない。
{グルがいなくても、あっちの次元で生きてる人が近年多いですね。
先日お話した方とも言ってたんですが、時代性でしょうか。
内なるグル、真我で在りながら生きている人たちなのでしょう。
最近のスピリチュアルな表現を借りるならば、
所謂、アセンションと呼ばれるものでしょうか。
皆さんはどっちの次元に生きたいですか?
私は、彼らと同じ次元で世界を見たい、普遍の自由に気づいていたい、
と物質的快楽や地位名声、金、子孫繁栄を手に入れるよりも、
今生は強く願うので、修養を続けているのだと思います。 }
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Question: どうすれば自分の師を見いだせるのでしょうか?
Bhagavan: 強烈な瞑想によってである。
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Question: ヨーガとは合一を意味しています。
いったい何と何の合一なのかと不思議に思ってしまいます。
Bhagavan: まさにそのとおりだ。
ヨーガは、以前に区別があって、のちにひとつのものが別のものと合一することを意味している。
だが、
いったい誰が誰とひとつになるというのだろう?
あなたは探求者であり、何かと合一されることを探し求めている。
もしあなたがそう仮定するなら、あなたから離れた何かがそこになければならない。
しかし真我はあなたに最も近いものである。そして、あなたはつねにそれに気づいている。
それを探し求め、それとして在るがいい。そうすれば、果てしなく永遠に広がっていく。
そしてヨーガという問題もなくなるだろう。
いったい誰にとっての分離(ヴィヨーガ)だというのだろうか?
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身体との自己同一化を完全に放棄くることこそが呼気(レチャカ)であり、
「私はだれか?」という探求を通して内側に消え去ることこそが吸気(プーラカ)である。
唯一の実在である「私はそれである」(I AM THAT)としてとどまることそが維持(クンバカ)である。
これこそが真のプラーナーヤーマである。
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Question: ハタヨーガは効果的に病気を払いのけます。そのため、
それはジニャーナヨーガの必要な準備段階だと唱道されています。
Bhagavan: それを唱道する者たちにはそれをさせればいい。それはここでの体験ではない。
すべての病気は絶え間ない真我探求によって効果的に絶滅されるだろう。
心の健康のためには身体の健康が欠かせないという考えに沿って進めていくなら、
身体の世話にはきりがないだろう。
身体そのものがひとつの大きな病気なのである。
この病気に打ち勝つためにわれわれがすべきことは、ただ静かに在ることだけである。
{痛いのやだ!病気やだ!
っていう癌家系のビギナーなので毎日ハタヨーガやってます。
癌になって死にかけようが、子宮や乳房やその他臓器がなくなろうが、
ワシはこの身体ではない、死にかけようが身体に勝手にさせておくが良い、
っていう段階の方はハタヨガなど要らないと思います。}
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Question: ハタヨーガは助けになるとよく言われるのではないでしょうか?
Bhagavan: ヴェーダーンタに精通した学者たちでさえ、その修練を続けている。
さもなければ、彼らの心は静まらないからである。
それゆえ、ハタヨーガをしないかぎり心を静めることができない者たちにとって、それは役立つと言えよう。
{ハタヨガはビギナーに役立つ手法とのことで。
ハタヨガは瞑想の準備なのでその通りですね。
私は周りの多くの友人がヴェーダンタを学び始める中で興味持てずにいたんですが、
バガヴァーンの教えに出会い、結果あれこれ納得しました。
周りに流されず、自分に正直に生きるのが一番、
周りのヨガの先生達ががやってるからやったほうがいいのかなぁ…と迷わずよかったです。
私にとって必要な学び、バガヴァーンの教えを、
前知識(ヴェーダンタ)との葛藤なしにダイレクトに受け取ることが出来ました。}
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多くのアーサナとそれらの効果がヨーガの聖典のなかに述べられている。
座はトラの毛皮、干し草など。
坐位は蓮華座、半跏趺坐など。
ただ自己を知るだけのために、なぜこのようなことが必要なのだろうか?
真実は、真我から自我が立ち現れ、それ自身を身体と混同し、
世界を実在だと誤解し、そして利己的な慢心から夢中になってアーサナを探し求めるのである。
このような人は彼自身がすべての中心であり、すべての現れの土台をつくり出していることを理解しないのである。
アーサナは安定した坐りをつくるためにある。
真我以外のどこに、どのように、揺るぎなく住まうことができるというのだろうか?
これこそが真のアーサナである。
全世界がその上に揺るぎなくおさまっている土台(アーサナ)、それが真我である。
それは真の知識の空間、輝かしい基盤。
この知識から逸脱することのない安定を達成すること、
それが優れたサマーディのためのアーサナである。
{こういう風なのに、
瞑想室の前でこれ見よがしにアドバンスアーサナやってるインド人(たぶん外人に教えてる)がおり、
同じハタヨガ練習生として恥ずかしくて立ち去りました。
だからハタヨガに批判的な人が、この地で増えちゃうんだから辞めて欲しいー
本くらい読んでからアシュラム内で自己主張してくれ。
こういう風なので、去年まったくリシケシでハタヨガのクラスを受ける気になれずでした。
エゴを捨ててゆくためのヨガなのに、エゴ丸出しの先生に教わって果たしてそれは叶うでしょうか。
なので、
ひたすらスワミジのエネルギーを感じられる場所で座ることに徹したリシケシ滞在でした。
ヨーガの学び、生きることの学び、自分にとって必要なもの、目的は何だろう、
周りの情報に惑わされず感じとってください。
その目的は、すべての始まりであり中間でありゴールをも意味するそうです。
そこに幸せ、内なる平和を見出すのだと思います^^ }
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すべての人が同じように幸福、あるいは賢明、あるいは健康であったことは一度もなかったし、
これからもけっしてないだろう。
幸福、賢明、健康はその対極がないかぎり何の意味ももたないのだ。
だが、
あなた自身より不幸な人や苦しんでいる人を見たときは、
慈しみをもってできるかぎりの救いの手を差し伸べ、
苦しみから解放するよう助けなければならない。
実際、
あなたはすべてを愛し、すべてを助けなければならない。
なぜなら、
これがあなた自身を助ける唯一の方法だからである。
あなたが人や生き物の苦しみを和らげようとするとき、それが成功してもしなくても、
もし「私がこれを行っている」という利己的な感情を抱かず、
「神がこの奉仕を通して私を使ってくださっている、神が行為しているのであって、私は道具にすぎない」
という精神で行えば、あなた自身、霊的に進化していくだろう。
他者に与えているものは、すべて自分自身に与えているのだ。
もしこの真理が理解されるなら、他の人びとに与えようとしない人がいるだろうか?
誰もが自分自身の真我なのである。
誰が何をするにしても、誰に対して行うのであったも、それは自分自身に行っているのである。
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カルマヨーガを推奨しないのに、最後のお言葉に、深い揺るぎない愛を感じますね〜^^
個人レベルの愛というより、
母なる地球、自然の愛と同じ感じでしょうか。
マザーテレサの居る時代にマザーハウスででボランティアしていた方が、
(当時のインドの壮絶な話を伺うことができました。
今のインドは、その当時に比べ清潔で何の不自由もないしとても快適ですよー! )
この地に数十年暮らしていらっしゃり、マザーのところを経験しても行き着くところはここですか?
と尋ねたところ、
バガヴァーンの教えに出会った時に、確信があったのだそうです。
さらに、最後の章でのこの言葉。
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「行為者である私とは誰か?誰がカルマを始めたのか?」
と問うことで、自己の真理を知ること、それがカルマの本質である。
カルマを為す自我が探求によって消去されるまでは、
カルマ•ヨーガの報いである至福の平和を達成することはできない。
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無欲が智慧である。
二つは別のものではない。それは同じである。
無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。
智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。
言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、
真我をけっして離れないことが智慧である。
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Question: 解脱を熱望する者にとって、
意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探求する必要があるでしょうか?
Bhagavan: ゴミを捨てたいと思っている人にとって、
その中身を分析したり、それが何であるかを調べたりする必要がないように、
真我を知ろうとする人にとっても、意識の性質を調べたり、
その構成要素を分類して数えたりする必要はない。
彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけることである。
世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。
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Question: 探求と瞑想の違いは何でしょうか?
Bhagavan: 探求とは、真我のなかに心をとどめておくことである。
瞑想とは、自己をブラフマン、
つまり存在ー意識ー至福であると思いなすことである。
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長くなったので、この辺で ^^
書きうつすほどに、書いてもしょうがない内容だよなーと思いつつアップしてみました〜
すべて本からの引用ですので、
勝手に宿題やらレポートなどで使わないようにしてくださいね。
勉強なさってる先生にはバレます(笑)
ヨーガの先にあるもの、
生まれたならば、
誰もがいずれ通らなければならない道について書いてあります。
死ぬほど辛い体験を経て、スピリチュアリティを求め、この地に来る方もいますが、
私と同世代の多くの人たちが、↑というよりも、
ナチュラルで生まれた時からそっちに向かっている気がしています。
その体験を言葉で知って、なるほどー!と感じるにはオススメの本です。
本音としては、
こういうもんは口で説明のしようがないので、
アルナチャラに来て体験するのが一番手っ取り早いと感じています。
運命が早く動く場所だと思うので、不要なものが早く出てきたり、
起こるべき業が早く起こったりするようです。
いつかアルナチャラツアーやりましょー ^^
↑ 出た!!叶わないいつか発言〜
過去も未来もなく現在しか存在しないんだったわー
アルナーチャラ!
と、一度称えることは、
ॐナマシヴァーヤ!と一千万回唱えることに等しいそうです。
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