-----------------------------------------------------------------------------------------------

2012年3月29日木曜日

ヨガのためのヨガ

こんにちは。
今日の京都はさくら日和。ほかほか~
る~らる~ら 桜を見ながらサイクリンリングしたり、公園でオニギリ食べたり。 
ぬくかったですねぇ。
 
毎朝同じ時間に起きて(今朝は断水やったのでそれを理由に久々の朝寝坊)ヨーガしたり
ほぼベジタリアンしたり、ごはんを軽くしたり調整するのに断食したりしてるって言うと
そんな制限してまで・・・ と、たまに言われます。
言われる度に、人によってはこれが制限なんや~とハッとするのですが。
  
私はこれをしない方が、人生が不自由で制限あるものと心が捉えた経験があり、
この選択をしているため、制限でも何の苦痛もなく、むしろ楽しくやってるっていう感じでいますが、
こういう生活は制限に感じます? どうでしょ?
  
ヨーガを実践するにあたって目的をはき違えると苦しいものや、それが不自由なものに
なるのかなぁと、もうすぐインドより帰国のSita由美子講師の言葉を思い出したので引用。
彼女が以前に雑誌Yoginiに寄稿していた記事の考察より。
  
「 ヨガのためのヨガの中で迷子になっては元も子もない。
 迷子というのは、なんていうんだろう、やっぱり迷子なんですね。
 でも、例え苦しくても、何が真実なのかを見極めて、
 そこに向かってもがいているのなら、それはOKなのね。
 今は力及ばなくても、正しい目標が見えている時点でそれはある意味、
 達成したのと同じだと思う。 あとは時間が必要なだけでね
  
 霊性への旅路、不可欠な四つのこと。

①目的地を知っていること・・・何をSatoruかってことでしょ?
②道を見つけること・・・ヨーガすなわち知識と信念を伴う道。
③乗り物・・・心も含めてこの体。
④旅の実践・・・サーダナ。
四つ揃わないとね、旅は成り立たない。①が無ければ迷子だよ。日本では嫌われる4という数字も、あちらではおめでたい数。 」  
親切に解説してくれてますねぇ。
でも私、当時迷子だったみたいで理解できなかった言葉たち。
 
特にポーズというヨガが目的になってしまってる場合が多いのかな。
私もそうだったと思うし、もしかしたら今もそうかもしれない。軽めの迷子かも?
  
伊藤武先生の「 秘伝マルマ ツボ刺激ヨーガ 」という本の中で頭立ちの解説、
ツボを刺激したいんだから、壁つかって良いって書いてあるのを見て、
あれ?わたし今まで「 壁つかうと癖になって、出来なくなるから使わないで 」って
頭立ちの解説するとき言ってたなぁ。。ヨガはポーズじゃないって言いながら、
結局形にすることを目的にしてたんや~
と思ったのです。
 
それを認めたら、もっともっと楽になったというか、ヨーガが楽しいものになったというか、
こだわりがなくなったというか、自然体になれた気がした。
 
そう、食べ物に気をつかうのも、こんな目に見える粗雑なもののことをちょっと変えるだけで
身体も心も楽だから。
  
今とか特に分かれ道の時で、さてどの選択をするかな~っていう時、
頭でついいっぱい考えちゃあ、うぬぅ~・・・となりそうになる。
インスピレーション、自分の内なる声、つまりは宇宙の流れ、進むべき道を聞きたくて
瞑想したり食べ物が適当にならないようにし出来るだけmindをシンプルに保つようにしている感じ。
  
でもあくまで目的は瞑想でも食べ物でもなく、流れにのるためだけだから
そこに制限など存在しない。
目標を見失わないように、おたがい精進いたしましょう。
  
ではまた☆ 

0 件のコメント: