こんにちは。
朝晩はまま冷える南インド、半袖で裸足サンダルのくせして腹巻レッグウォーマーだったりします。
これが許される海外。
インド人は、耳から冷気が入って脳みそが冷えるのがNGらしく、毛糸のほっかむり。
なかなかかわゆいんですが、ほっかむり。
おっちゃんは、足丸だしでボアの耳当てしてたり。
なんでもありだよ~
先日、久しぶりにサリーのおばちゃんが立ち小便をしているのを目撃、
やっぱインドすげーわって思いましたー^^;
いろんな意味で唯一無二。
サリーの下着って、日本の昔の下着、腰巻みたいなのです。
だからちょろっとまくって、しゃーっておしっこが可能。
頭に大量に荷物をのせて働いているサリーの女性も多いから、
確かに立ち小便だと楽なんだと思います。
そうだ、頭に重いものをのせて運ぶ件について、
肉体労働をしているおばちゃんは、観察していると、足腰が割としっかりしてるんですね~
中心軸がしゃんとしてないと、重いものを頭にのせて歩いたりはできないから。
ところが、金持ちは重心がしゃんとしてないからか左右に振れて歩く、
生活習慣が変わっても食べる量は変わらない、どころか贅沢品が増え糖尿病で
足腰やられて、どうかするとサリーでコルセット。(ここでもなんでもあり!)
そうなってくると、よもや立ち大便の世界です。 オーマイガー!
ときどき、なにがどうしてそうなった?!
という開けた瞬間に、ドアをそっと閉めるトイレに遭遇するのですが、そういうわけです、はい。
金持ちと物乞いは足腰が悪い。
馬鹿と天才紙一重と同じものを感じる、、、
マインド次第で、金持ちと物乞い紙一重なのかも。
なんでも適度に、中庸がやはり良いみたいですね~
さて、
こないだ友達と話していたのですが、ここで私が学んでいることって、
別にヨガの勉強でもなく、学校に通ったりアシュラムにステイしているわけでもなく、
きっとブログだけ読んでいると謎だと思うんですが、
ざっくり言ってしまえばある意味「終活」だね、という結論になりました。
魂のための、マインドの働きを終わらせるための、終活。(肉体はマインドに属するので)
どれだけ魂を浄化できるか、みたいな感じかなぁ、、、
私がフォローしている、Sri Bhagavan ラマナマハルシの教えのまとめを
書き留めておこうと思います。
これだけでは、なんのこっちゃ?って感じかもしれませんが、、
これだけでは、なんのこっちゃ?って感じかもしれませんが、、
「教えの精髄 Upadesa Saram」
1、行為(カルマ)の結果は神によって定められている。
では、行為とは神なのか? いや。
行為に生命意識はないからだ。
2、行為の結果は尽き果てるが、
それは行為者を行為の大海に落とし入れる種子を残す。
それゆえ、行為が解放をもたらすことはない。
3、だが結果を期待せず、神への奉仕として為された行為は、
心を清め、解脱へと導く。
4、身体、言葉、心による礼拝、ジャパ、瞑想という行為は、
その順に向上する。
※身体による礼拝よりも、言葉によるジャパが優れ、それよりも心による瞑想が優れている。
5、土、水、火、風、空、太陽、月、ジーヴァ(個の魂)から成る
全世界を神の姿と見なすことは、神への優れた礼拝である。
6、声高らかな神への賛歌よりも、静かな声の称名が優れるが、
最も優れた瞑想は心の中での称名である。
7、断続的な瞑想よりも、流れる油や川のように、
途切れることなく続く瞑想が優れている。
8、「神は私と異なる」という観点からする瞑想よりも、
「神は私である」と瞑想するほうが優れている。
9、強烈な瞑想によって、想念のない実在の境地にとどまることが、
至高の帰依である。
10、心がハートの源に融け入ることこそ、
カルマ(行為)、バクティ(帰依)、ヨーガ(瑜伽)、ジニャーナ(知識)である
11、網に捕われた小鳥のように、呼吸が制御されれば心は静まる。
呼吸制御は心の制御法である。
12、心と呼吸は思考と行為という二本の枝。
それらは原初の力(シャクティ)という一つの根から現れる。
13、心の沈静には没入(ラヤ)と消滅(ナーシャ)の二種類がある。
一時的な心の没入は、再び現れるが、消滅すれば、二度と現れない。
14、呼吸制御によって沈められた心は、
内面に向かい、一つの想念をとらえることで消滅する。
15、心が消滅し、真我の境地に達した偉大な賢者(ジニャーニ)に、
もはや為すべき行為(カルマ)はない。
16、心が外的な対象を手放して内に向かい、それ自身の輝ける姿を見るなら、
それが真の叡知である。
17、心が絶え間なく自身の本性を探求するなら、
心と呼べるようなものはないことが知られる。
これがすべての人にとって直接の道である。
18、心は想念にすぎない。
すべての想念は「私」という想念に依存する。
それゆえ、心とは「私」という想念にすぎない。
19、この「私」はどこから立ち現れるのか?
と内面を探れば「私」は消滅する。
これが叡知の探求である。
20、「私」が融け去るところに、真我は自ずと「私ー私」として現れる。
それが無限なる至高の存在である。
21、「それ」が「私」の真の意義である。
なぜなら、「私」という感覚のない眠りの中でさえ、
私たちは存在しているからである。
22、身体、感覚、心、呼吸、眠り。
これらは生命意識を持たないため、実在ではない。
これらは「私」ではない。
「私」が実在なのである。
23、存在する「それ」を知る他の存在はない。
それゆえ、存在は意識である。
私たちは意識なのである。
24、神と個人の魂はその本性において一つである。
それらの違いは知性と属性にしかない。
25、すべての属性を消し去った自分自身を見ることは、
神を見ることである。
なぜなら、神は私たちの真我として輝いているからである。
26、真我を知ることは真我として在ることである。
なぜなら、真我に二元性はないからだ。
これは実在に確立された境地である。
27、真の知識は知識と無知の両方を超越する。
なぜなら、純粋な知識の中に、
知られるべきことは何もないからである。
28、自己の本性が知られるとき、
人は始まりも終わりもない不滅の意識と至福として在る。
29、束縛も解放も超越したこの至福の境地にとどまることこそ、
至高者への無窮の奉仕である。
30、自我の痕跡を消し去り、
ただ「それ」として生きることこそ真の苦行である。
真我であるラマナはかく歌う。