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2018年1月30日火曜日

悟ってしまったらしい件②

たまにミールス(南インドのランチ定食)も食べるけど、
ローカルのはまま辛くて、白飯を隣のおやじばりに食べちゃう^^;

こにゃにゃちは。
健やかなるままにお過ごしでしょうか(^^)
毎日があっという間。
また、思考をキープできない状態に入ってきてます~

山に登ってる時、わかりやすく、それでいて詩的な、
すっごく良い表現が湧いてきたのになー、、、

いつ寝て、いつ起きたんだから、
眠っているときの夢と、今まで疑い無かった現実とおぼしきものとの間に、
どんどん境界がなくなってきています。
朝起きたら、すべてが新しく、なんだか物珍しい。
赤ちゃんの視点ってこんなだったのかな~

とにもかくにも、
ぜんぶ夢、幻想だ(^^)

※このブログはすべてフィクションです。


この「ぜんぶ」を、ノンデュアリティ(非二元)のスピーカー達は、色んな言葉で指し示します。
例えば、
日本人では有名な「大和田菜穂さん」は、「無償の愛」とか「ライフ」と表現します。
「じゅんころさん」は、「これしかない」とかで指し示してました。
エックハルト・トールは、「空間」とか。

大御所の、トニー・パーソンズは、字幕付の映像を見つけられず、
まだ本も読んでないんですが。。

確かに、それしかないそれは、「愛」だし「生命の源」だし「空間」、「全体」と呼べる。
「神」、「真我」、「アートマン」とも呼べると思います。

「其れ」っていうのがしっくり来るけど、
なんだかロマンが足りないので、ここでは「リーラ(神の戯れ)」とか呼びたいかなー

「愛」っていうと、どうしても、「じゅてーむ(^з^)」みたいな甘いイメージでなんだか照、、、
でも実際、「愛」しかないんですけど。



ニッポンは寒いんでしょーーーなーーー

エネルギーのシフトが起こる前は、
寒いのが苦手だから冬はインドで修業したらちょうどいい!って思ってたけど、
今年はインドいっかなぁ、、、日本の情緒深い冬もまた、いとおかし、やもんなぁー
と実は思っていました。


これも小さな変化のひとつ。
寒いのは寒いんです。
苦手は苦手なんです、この身体、すげー寒がり。
ただその寒さに前みたいに、「イヤ」がくっつかない。
「イヤ」だと思う人がいなーい(^O^) わーい 笑

シフトしてから、愉快なことが多くて困ります。
アシュラムとかで大笑いしそうになる。

「私」がいなくなった副産物に、ふとした瞬間に気づくので、
これまで苦手だったこととか試して、どんなことが起こるか興味深いよね、
なんて、
悟り友達(笑)と言ってたんですが。

あ、そういえば、
ログのタイトルだからキャッチーで面白いかな~って「悟り」っていう言葉を使ってみましたが、
「悟る」ということは起こりません。
なぜなら、、、、

悟る「人」がいなかった!!!  笑!!

これが明らかになったとき、いったい何人の人が笑っただろう!と想像してまた笑える!
そうだ、
明らかになった時には、笑う人もいないんだった!! 再び笑えますね。。 
考え始めると、脳みその許容範囲をこえてるのか、
気が狂いそうになるので、やめた方がいいです。 ふふ、、、もうやったよ。

今日は興味のなかったことの一つ、
「インドでミュージックコンサートに参加する、の巻」 という物語が起きました(^^)

ここティルヴァンナマライでは、
外人が多いシーズン、よくバジャンや音楽の催しが行われております。

「K氏」は、こういう集まりが苦手、、、
というのも、みんなノリノリで手を叩いたり、ビートを刻んだりするじゃないですかね。
そういうの、恥ずかしいっ(〃д〃)
うまく刻めないっ

↑ みたいなとこがありまして。
でも、今日はなんか楽しかったー(^^)
本気インド音楽だったので、迫力がすごい!!!
インド人ってやっぱすごいです、もう血ですよね。
音楽だって、自分の生涯をかけてやるもの、心構えが違います。
師匠は人生そのものの先生。

一曲目では、魂がふるえるって表現できるのかな、、、
(魂ないけどw そもそも見たことないのに今まで信じ込んでたのが謎、、、)
涙が出そうになって、身体がかーっとあつくなりました(^^)

そういえば、こういった高揚感とかが、持続することがなくなりました。
いつもの、何もないけど愉快(^^) 同時に常に静かでリラックス、っていうのにすぐ戻る。
興奮冷めやまぬ、はなく、興奮いっしゅんで冷める、みたいな 笑

だから、
今回いってみて思ったのは、
こういう高揚感とか、目に見えるものや瞑想の一時的な恍惚感、神秘体験とかで
喜びを得たい、
そしてこの一時的に幸せな経験を後生大事に自分のものとして取っておきたい、
という人には、
「非二元」の現実は、ぜんぜん必要ないかと。

ただそこに、
苦しみからの解放、絶対の自由はないです。
わからないことは相変わらずたくさんあるけど、
これだけは確か。

もうひとつ絶対なのは、
瞑想しようがYogaしようが、苦しい修業をしようが、
シフトが起こることに、なんら因果関係はありません。
シフトのために、我々ができることは何もありません。

「K氏」も実は、シフトが起きたとき、
ラマナマハルシの教えちょっとさぼっちゃお、忙しいし~
って、
怠け心のままに、とあることをしていたら、シフトが起こってきてました。
この、とあること、に関してはネタとして面白いので、
ここではシェアしません、直接お会いした時にね(^^)

パッと一瞬で起こる場合もあれば、緩やかに起こってる場合もある、
とは、エックハルトが書いていました。

どうせ因果関係ないんだから、
「K氏」と同じことしたって、起こるか不明ですし。


うーん、、、なんか本当に色々と覚えてられなくて、
書く時に困る、、、

ネタになりそうなことは、覚えてろよ!って印象づけるよう頑張ってるんですけどねぇ、、、
まーでも一番おもしろいところは、伏せてますけどね、いつも(^^) ふふふ、、、
直接会った時に聞いてくださいね。



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次回、予告 ↓
呼吸する、ご飯たべる、おしっこする、
と同じに、特に価値はないんですけど、
「K氏」の個人的体験を次は書こうかなーと思います(^O^) 
シフトが起こった時に、世界がどう見えるか、など。

悟り友達の話聞いてると、表れ方が違うのかなーと思ったり、
でも言葉の表現のしかたが違うだけかなー、、
友達は「世界が消えた。そこの壁もないでしょ?」って言ってました^^;

壁はよくわからなかったので、
壁あるかなぁって考えてみた、その結果、、、
次回に続く、、、

かもしれない(^^)






2018年1月26日金曜日

悟った人に会いに行ってみた件②



こにゃにゃちは。
ちょっと色んな予定が入ってきてて、
買い出しとかにも時間かかるインドだもんで、
時間がない。

おっと、そう、時間って本当は存在しないんでした^^; 概念だけで実在しませんー
おひとり様でぼーっとする時間も、愛してるから、
なんせ書く時間が足りませーん。

とっとと終わらせますね、このエピソード。
はよ書かな忘れる。
最近は、
昨日のことがもう何十年も昔のことみたいに、ぼんやりしてて、
現実味がぜんぜんありません。
昨日会ったあの人は、本当にいたんだっけ?夢だっけ?どっち?
という感じ。
たまに、脳みその病気かなーって思っちゃうほど記憶が薄い^^;

記憶という形で、この瞬間、思考が起こってるだけなので、
過去に現実味がないのは、当たり前のことかも。
過去の思い出を保持する人物が、どこにもいないいのですから^^


ここ南インドのタミルナードゥ州、聖なる山アルナーチャラのある、
ティルヴァンナマライは、日本でもおなじみの(ちがう?)聖者、
ラマナマハルシで有名な場所に御座います。

ですので、
世界中からスピリチュアルシーカー(精神性を探求する人々)が集まって参ります。
短期の旅行者にはあまり知られてはおりませんが、
ラマナアシュラム以外にも、聖者のアシュラムが幾つかあり、
今でも、
ジーヴァンムクタ(肉体を持ちながら悟った人)として崇拝される聖者もおり、
聖者たちのサマーディ(お墓)など、パワースポットがたくさん点在しております。

探求者たちは、各々の性質にあったアシュラムや聖者の元で、
思い思いに修業に時間を費やしています。

外人がたくさん集まる今のシーズンは、
「サットサン(聖なる集い)」があちらこちらで行われており、
日本ではあまり知られてないかもしれませんが、
ワールドツアー(アイドルかっ^^;)を行っているような有名な覚者もやってきては、
サットサンを開催する、そのようなことが日常的に起こっています。

以前のK氏は、
「いや、私はバガヴァン(ラマナに敬意を示して、ここでは皆がそう呼びます)の
 教えだけで十分。アルナチャラが先生だ。余計な情報は心を惑わす」
と頑なに、サットサンなどといったものに参加したこともなかったんですが、

前ブログの通り、
もはやこのK氏、死にぞこないの役立たずと化してきておりますんで、
言われるがままに、ひとつのサットサンに行ってみたのでありました。

単にヒマだったのと、
自転車借りて、るーらるーら♪したいなー良い季節やもんなー♪っていうのに
口実をつけたかっただけかも。

予想通り、
自転車での、サドゥストリートドライブは楽しくって仕方ないものでした(^^)
陽気なサドゥーたちに、
なましヴぁーや~ はりおーむ
ニコっとすると、向こうもニッコリ。
これも南インドの好きな風景のひとつ。

家もなく、道路で寝ていたって、
食いっぱぐれないし、悠々と過ごせる、これは南のあたたかい空気、(今けっこー寒いが、、)
豊かな土地柄なのかなーなんて思います。   事実は知らん。わしはインド人ではない。


さておき。
それはもうご機嫌で、覚者の元へたどり着いたK氏、
その覚者と聖なる集まりをするその場所は、とても清々しく開放感あふれ、
真白の壁に大きく開いた窓からは、
アルナチャラがどーんと見え、その下には花々が咲き蝶が遊ぶ、
という最高のロケーション。

瞑想キター!
って感じ?(^^)

そう、瞑想って、勝手に起こってるものだったんです。(っていうか全てが、だけど^^;)
だから、
いま私めーそーしてるー してたー とかって出てこない。

瞑想が深い、とか良い瞑想、とかそういう発想がもうないです。
目を開けてても、閉じてても、同じ。
だって全部、同じ! 同じに無意味なんやもん! 笑   

例えば、
シフトが起こってから、
生活費かせぐため&ヒマつぶしのパートも、もう瞑想。
瞑想が勝手に起こる。
瞑想する人(私)は存在しないし、
それを観察していたり、気づいたりしてる人もいない、
瞑想しかない、とも表現できるのかも。


この日の悟った人は、
Sharada Maというアメリカ在住のインドの方。
(検索したらヒットします。)

お話を少々と、瞑想、あとは「トランスミッション」(エネルギーの注入みたいな?)
英語は1/3くらいしか聞き取れなかったけど、
Maと座っていると、
頭の中に空白だけが押し寄せてきました(^^)

もはや、思考が起こっても気にならない、
同時に静けさが在るので、
頭の中が空白だろうが何だろうがどっちでもいーんですが(笑)、
やっぱり聖者ってそういうことを(あくまで見かけ上)起こせるのだろうなーと思いました。

はっ
そういえば、その日のハタヨガしてるとき、
すんごい身体、軽かった。
食べたものの消化もよかったような、、、?
因果関係がないから、Maのおかげかは不明ですけど。


あくまで、
前にも書いたように、一時的な体験に意味はありません。

そういう不可思議体験は、
いくつかここで起こりましたけど、意味ないんです。
こないだもありましたけどね、神秘体験。
おもしろいけど、意味ない^^;

だって本当のところ、なんにも起こってないんだもん^^;
だってだって、そもそも体験する人物が不在なんやもーん。 なにも起こり得ない!
そして完璧に起きてる! 
頭おかしくなる夢の話で、笑うしかないですね(^^)


目をあけていても、閉じていても、
瞑想状態に導いてくれるっていうのは、心地好かったです。

一時的なものは、シフトになんら関係ないけれど、
心地好いのは好きですよねー 誰でも(^O^)
好き嫌いの好みとか、性格は残ります、シフトが起きても。

K氏もそうだったけれど、
ラマナマハルシなど名だたる聖者のように、
「悟り」って、聖人君主が完成するんだと思っていました。

でも、この自我といエネルギーの消失、エネルギーシフトでは、
聖人になる、といったことはありません。
ラマナハルシと表現されるその人に、起きたことがどういったことか、
わからないので、このシフトと同じかはわかりません。

うざいもんはうざいし、不機嫌なときは不機嫌が起こる、
子供になったみたいな感じ、と表現できるかもしれません。

すぐ忘れるし、むやみに愉快なことが多い、
そういえば、偏見とか決めつけはないかも。。。
この人はこういう人だから、っていう発想は湧かなくなったような、、、

シフト(究極の自由、安心感)とはなんら関係なくても、
良い悪いは存在せず、起こっていることはただ完璧。

「 あるがまま 」
バガヴァンが、こう言うしかなかったことに深く頷けます。
「 あるがまま 」


聖なる人を必死で追い求めて、
自我のエネルギーを強めるエサにしないならば、
悟った人に会いにいくのは楽しい気がします(^O^)

でも別に、自我にエサをあげてもいい(^^)
自我というエネルギーが、今そこで起こっているならば、
それもまた完璧な表現。

ちなみに、
「非二元」の現実において、因果関係はないから、
どんだけ聖者に会おうとも、
エネルギーのシフトが起きるときは起きるし起きないときは起きない。

待つことも、委ねることも、信じることもできない、
自由意思は存在しないから。
なんにも出来んやん^^;

はーい、これも自我にとって残念なお知らせねー
ノートとって肝に銘じてくださーい 笑


もう喜んで死ぬっきゃないなーって開き直ったら、
K氏の絶望は、出てこなくなりました(^^)

そもそも死ぬ人なんて誰も存在しないんだけども 笑


※ この話はすべてフィクションです。



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どうでもいいことなんですけどね、
面白いから、くまりちゃんを上位にやってみて~ 笑






2018年1月25日木曜日

悟った人に会いに行ってみた件①



こにゃにゃちは。
お元気にお過ごしでしょうか(^^)
こちら、インドという夢の中で、毎日元気&愉快に過ごしております~

※このブログはすべてフィクションです。


なんか笑いが出る。。
めんどくせーうざーってことは、しょちゅうかっちゅう起こるんですけどね。。
インドですから。

しかし、
早朝にお寺へご挨拶にうかがったら、
よく会うおじさんが、ほらよってプラサードのお花をくださったり、
山で朝日を拝んでるとこを勝手に写真に撮ってプリントアウトして渡されたり、
美しいことや愉快なことも多々ありなん。

どっちも同じに笑えます(^^)
だってどっちも、夢の、幻想のお話なので。。。

これまで疑い無く現実と信じていたことが、
がらがらと崩れ去って、「私」は、過去の思い出も、未来への期待や不安も、
なんにも持てなくなってしまいました。

否、
正しくは、

それらを所有する「私」が元々いなかった。
喜ばしいことに「私」は、今やほとんど死にかけています(^^)


このトピックでブログを書こうと思い立ったのは、
この「私」という感覚が不在な時と、すごく存在感が有るときと、
行ったり来たりして、
疑問がたくさん湧いてきたり、居心地わるーい不安な感じになることがあったからなんですが、
今や、
それもほとんどなくなってて、書く気も失せて来てる^^; 笑笑


ラマナマルシだったか、ニサルガダッタだったか、
「喜んで死ね!!」
とおっしゃった意味がよくわかります。

このブログでも、
「非二元」に引っ張ってくれた人や本も紹介しようと思っています~
今、友達から借りて読んでる本は、
「 早く死ねたらいいね! 」
洒落がきいてて、かなり笑える一冊です(^^)


時間と空間がないため、
過去が存在しえない「非二元」の現実では、
カルマ、(ここでは「因果」として使います。)
そうカルマも存在し得ない。

物事に因果関係がない、というのも「非二元」の現実。
だもんで、
はいここで「自我(個人)」には非常に残念なお知らせで~す、ノートとっとくように!

このエネルギーシフトに対して「個人」ができることが何も無いのです。
努力も、プラクティスも、瞑想も、信じることも、祈ることも、
やってもやらなくても、どっちでも、とのこと。 
ま じ か (;° ロ°)(←自我の心の声)

「私」がリアルとして信じてきた、この現象界は、
悲しいかな(自我にとって)、
ただ無意味に、身体や思考や感情や物事が、淡々と起こってるだけ。

悲しいお知らせだよね、、、
あたしゃ(個人としては)、絶望の真実でしたよ、、、
インドくんだりまで来て、一日中、瞑想に時間を費やしてたんだもんよ。
いったいヨガのクラスに時間とお金、いくら費やしただろうか、、、
世界一周の旅とかできたんじゃなかろうか。。

突如、
そこでシフトが、ただ起こるだけ。
ねー もー 完全に、戯れ^^; 神様の悪戯でしかないよ、、、ひどいや。
インド人が「リーラ」と呼んだ気持ちがよくわかる、いま、、、^^;


原因と結果という「因果関係」がない現実なので個人にできることはないはずなんですが、
この「非二元」の現実について話している人が、
「この現実についてのメッセージに触れていると、なぜか何かが起こる」、と言ってたんですねー

それで試していたわけですが
(また悲しいかな、個人の自由意思というものも存在し得ないので、
 誰かが試したわけでなく、正確には、こういうことが起こっただけ)
起こりましたよ(^^) 
(ー でも同時に、実は何も起こってないんです。ふふ。頭おかしくなりそうですね 笑)
ていうか、これが一番てっとり早いんではないかな~

「非二元」の大御所、エックハルト・トールは、
(確かドイツ人。
 インドに来てから興味もったので、まだ本など読んでないけど、
 最近では、ラーマクリシュナのアシュラムなど、大きいとこでも彼の話を取り入れているそうです。
 ラマナアシュラムで、公式にサットサンをやった唯一の外人とも聞きました)

思考を観察する、など方法論も伝えてくれてるみたいだけれど、
ほら、K氏ときたら、怠け者なので^^;
メッセージ聞くだけとか、ちょろいじゃないですか 笑
私は聞くだけ、読むだけ派。

あとは、直に会える人ならば会う。(←今回のネタですね)
話の内容うんぬんより、そういう人の形をした現れは、
それが完全に自我を消失し、ただ「其れ」として起こっているものならば、
同じところに、引っ張ってくれるから。

これがきっと「グル」の始まりなんでしょうね。
「其れ」からすると、グルも弟子もいないもんで、(そんなもん存在したら二元となる)
ラマナマハルシは、自分に弟子はいないって言ってたみたいですけど。



いやはやしかし、
絶対!現実!と信じていた世界が、リーラ(神の戯れ)でしかないって 笑
つまり、
大切なものもなにもない、人生に目的もない、人生で起こるすべてが無意味、ってこと。
個人としては、死にたくなりますね~
はい、喜んで死んでください 笑


「個人」という主体が存在し得ない「非二元」の現実では、
「死」=身体とマインドの所有者は「私」である、という個人の消滅、
「自我」の死を意味します。
これ知ったとき、死ぬのうれしいなって思いました。

これまで瞑想してきたのは、
この「私」の所有する、マインドの浄化のため。
マインドから出てくる色んな感情、
悩みや不安、心配に憎しみ、羨望、欲しいものが手に入らない葛藤などなど、
加えて、
輪廻転生により、すっかり癖になってしまったマインドの習性、
(非二元では、輪廻も存在し得ません^^; これインドで受け入れられんだろうな~)
これらから自由になりたくてのスタートでした。

自分が死にかけてみて、勘違いに気づきました。
マインドで起こることに意味(良し悪し)はないので、マインドに意味付けをしていた個人の消失、
こっちが起こらないと意味がなかったっていう^^;
だからまあ、これまでの瞑想の方向性は、勘違った方を向いてたようです。


簡単に言ってしまえば、「ただいつも幸せでいたい」「心穏やかでありたい」、
人間の探求は何でもここが原点だと思います。

だから、お金や物や地位、結婚や子供、恋愛のパートナー、
目に見えるものに幸せを求めることも、
スピリチュアルなことに幸せを求めることも、
結局は、同じなんですよね^^;

目に見える世界では無理だー、と、探求の矛先がスピリチュアルな世界に置き換えただけで、
ここからすれば、なんら変わり無い。


おおっと、
前置きが長くなりすぎたので、
賢者に会いにいったエピソードへうつります。

概ね、
「非二元」の現実はこんな感じです(^^)
色々書いたけど、かなりシンプル。
「私」がいなくて主体(私)&客体(その他)っていう「二元」が成立せず、
「其れ」しかないので。


それでは、「くまりちゃん、インドで賢者に会いにいってみた、の巻」
スタート!


と、
いきたいとこですが、疲れちゃったー。。。^^;
記憶のあるうちに書きたいんですけどねー
これもただ起こってるだけなので、仕方無し。
我に自由意思なし。
ってことで、お後がよろしいようで~、、、   たはは


次回に続きます。。。   。。たぶん。




つづき気になる!
という場合は、「ヨ ガ」バナー、クリックよろしくでーす →

がんばって書くかもしれないし、書かないかもしれない。。
すべては神の戯れですから~ 笑


、、、非二元って、責任逃れというか好き勝手だよなーと思いません?
じゃあ、好き勝手、好きなことだけして生きていーんじゃん!!世界、幻想なんでしょーって。
でも忘れちゃいけない、
それに関してすらも、我々に自由意思は存在しないのです。
だって「我」がいないから。



2018年1月23日火曜日

悟ってしまったらしい件


こんにちは(^^)
お元気にお過ごしですか。
毎日意図せず、3時過ぎとか4時過ぎとかに起きてるようなんですが、、、

こうなって来ると、どっからが夢でどっからが現実かわからなくなる。
アルナチャラならではらしい現象が起こっています。
「自我」の存在しない現実では、
肉体が眠っている時にみる夢と、
「私」たちが信じているこの現実は、なんら変わらない夢だとは、
数々の覚醒した人々が言ってはいることですが。

ラマナマハルシは、
寝てる時の夢との違いは、ただ連続性の有る無しか、と言ってますね。

ノンデュアリティでは、「個我」にとって連続しているように見えるだけで、
実際は、瞬間瞬間が新しい夢なので、そこに因果関係はなく、
何かしらの法則(運命とか)を「個人」が後付けしてる、と言います。
(それらのアイデアも全て、起こっているだけ、なんだそうですが、、、)


今回も、「K氏」の夢の話を記録しようと思います。
どうも「私」、悟ってしまったらしい、、、
そんな夢を見まして。

夢には時間が存在しないことは周知のこと、
過去がないから、記憶もどんどん砂の城のように、
つかもうとするとハラハラと崩れ去って、持っておけないでいます。
昨日のことが、何十年も前のことみたいに現実味をおびない。

この夢について、いくつか疑問を持ったとき、
似たような夢を見ている人たちがYouTubeでお話していたのですが、
記憶がほとんどない、と皆さん言うんですね。
なので、
覚えているうちに書いておくことにしました。

この夢の始まり、夢だけが起こり始めたのはたぶん、屋久島にいた時。
正確には、もっと前からちらほらと夢が現れることがあったのかな、という出来事も覚えていますが。
顕著なのは、このブログでもときどき書いていたように、
ヨガを教えることにほとんど興味がなくなった、ということ。
興味がなくなったというか、そこにこだわりがなくなったというか、そんな感じ。


いつからか、このブログ、ほぼストップしましたよね?
あれって、思考をキープできない状態が起こっていて書けず。
これネタになるなー書こっかなー、と思いついたことが、消えてしまっていって、
自分の意思では、キープできなくなってしまっていました。


この「私」の夢のことを、世間一般では「ノンデュアリティ」と呼ぶ人が多いようです。
Non Dual ふたつではない。
「いちなるもの」と言うと、2の存在を認めることになるため、このように言うようです。

すっかりやめたしまったヨガのお勉強、アドヴァイタヴェーダンタとかも、
同じなのかなー   やめちゃったから知りませーん。
ザックリでいいので、ちょっと気になる。  あくまでザックリ(笑)

屋久島で暮らしているあいだ、いつものように思考が浮かんできて色々と
この「K」さん(クマリでもカナコでもどっちでもいいけど)は考えていました。
忙しい時もあったけど、パートを始める前とか、信じられないくらいヒマな時もあって、
お金もないから遊びにも行けないし、友達もいないし、
(ガソリン代が高くってー。遊ぶのにお金がかからない、という意見もあるけど、
 それは一定収入ある人の意見だよね、だって山登りする登山口まで車で1時間以上かかるとこばーっかりだし)
ただ、
無駄に思考の渦の中にいて、自分の考えに疲れることしばし。

で、
この「K氏」、あるとき考えに考えまくった結果、ひとつの結論に達しまして、

人間がしている行為のすべては、自分のためであって他人のためとか社会のためとかなくね?
だって、
日本で人助けと信じてやってる行為が、実は地球の裏側で子供を搾取してたりして、
ぜんぶがうまく幸せなんてこたーありえんことやん。
自分が永遠のヒマの中にいる、ということに気づくのを恐れ、
その事実に気付かないために、忙しくあれこれやってるだけやん、
おそらく病気とか悩みもしかり、悩んでる間は、そのことで必死やもん。

なーんだ、人生ヒマ潰しだったー 
わたしもヒマだから、働いてるのかー、 ヒマ潰ししてお金もらえるとかラッキー☆

みたいな思考が夢の中で、起こったようでして。
それから、「嫌なこと」が少しずつ減ったような記憶があります。
てっきり、
毎朝の日課、フラワーエッセンスの「レスキューレメディ」が効いてきたんだと思っていましたが。

それでもしばしば、
仕事いきたくないなー 今日はやりたくない仕事がきそうだなー ぜったい忙しそー やーだー
とか思うこともあって、
特に台風の日に出かけて、外作業があるときの憂鬱さったらなかったね。

そういった時、無意識に、
「でもさ、ヤダっつっても、やらないかんわけよ。
台風きとるわけで、他にやる人おらんし。じゃあヤダって思うのは時間の無駄じゃね?」

みたいな自問自答が内側で起こっていたような。。。
そしたら、
不思議と「嫌だ」という気持ちが、仕事から離れてって、ふわふわーと消えてなくなったのを覚えています。
そのうち少しずつ「嫌だ」というのが現りつつも、こっちまで来なくなって、あとはもう仕事(行為)だけが起こっていたような感じ。
つまり、仕事(行為)に、嫌だっていう原因はないんですよねー なーんだ。

今年、
屋久島には台風が4,5回きたんですが、そうなると家で缶詰、
ひどい時は3ー4日、出れないこともあり、一人暮らし(ワンルームだし)は誰とも口きかず、、、みたいなこともありまして。
前だったら、「わーーー!!外に出してーーー!!!ひまじゃー!!」

ちょっと鬱気味?頭おかしくなりそう?とにかく気分の良いものではない状態になるところ、
最後の方の台風では、いつもと同じ感じで過ごしてて
レスキューレメディすごいなぁ、と思ったものです。

そうこうしてるうちに、秋。

ゲストハウスの方の仕事が終わりに近づき、
別になけなしのお金をはたいて車を買ってまで屋久島に住みたい情熱もないし、
引っ越しもめんどいしー、などなどあり、
パートも辞めて引き上げることにしたんですが、
パート先から、だいぶ引き止められました。
良い条件で話をもらったりして。 ありがたやー
(ボーナスのある生活に心が揺らいだことは確か。職場の人、全員が全員、良い人だったし。)

ここで言いたいのは、この夢の登場人物「K」の優秀さではなく、
マインドのない状態で、仕事だけが起こっている時に、良い感じで仕事が為される、という
バガヴァットギーターの教えの真理を思ったりして。
そう、個人(私)の不在、というのが、なんかスムーズみたいなんです、幻想の(夢の)人間社会では。
パートの仕事してて、やっとバガヴァットギーターの意味がわかったですよ 笑
(正確には、良い感じで仕事が為されない場合も起こり得るけど、それもパーフェクト。
 仕事の失敗を気に病む個人の存在は幻想なので)

「カルマヨガ」ってのは、給料もらわないで行うボランティアの仕事のことではないですよー 
無為の行為。 
つまり、行為者がいないまま起こる自発的行為。
これって自発的に起こるから、「カルマヨガ」やろうって発想が誰かにある時点で、
(やろうって思う誰かがいる時点で)
その仕事を、カルマヨガではないものにしてるっていうジレンマ。
ラマナマハルシも言ってるー 
カルマは自発的に起こる、つってねー
(ボランティアやろうっていう思考は起こるかもしれないけど、誰に対しても起こらない)

そんなこんな、
ぜんぜん興味ないパートタイムの仕事だったけど、なんだか楽しかったし、
暇つぶしで褒められて、
お金までもらえて、ていうことが起こったり、
日常の中で、そういう、ごく自然な、小さな変化が起こっていました。

あくまで「K氏」の夢の中で。

つづく
(かもしれない 笑)



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もはやヨガでもなんでもなくなってきたけど^^;



2018年1月3日水曜日

わたしの悟り体験談



新年あけましておめでとうございます!
ご縁あってどこかでお会いしましたら、よろしくお願いします(_ _)

はてさて今年もインドで迎える新年です。
なんのことはなく、アルナチャラから初日の出を見ました。
この数年の恒例です~
で、
もちのろん朝からスパイシーなインド料理を 笑

前もって言うの忘れてましたが、ぜんぶ夢の話です。
インドにいるのも、元旦の朝、「ヘイ、おやじ!サンバルおかわりだ!」と
イドゥリやらワダなどのティフィンをたらふくいっぱい食べたのも、ぜーんぶ夢まぼろし。

今日は、ちょっと昔みた夢の話をしようと思います。
たまたま「K氏」、思い出しまして。
「自分」が消えちゃった=自我の消失が起こった人たちは、
(実際には人はおらず、正確な描写を言葉でするならば、
自我というエネルギーの消失した個体に見える一部の表現、とか? 長いのでここでは人とします。)
「一瞥体験」(いちべつたいけん)をしてる人が多いようなんですね。

なりたてスピっ子(スピリチュアルっ子)の「K氏」は、
一瞥とか知らんかったし、読めんかった難しくて、この漢字。

それで「K氏」は夢の中で、思っていました。
私には、そういった夢は起こらなかったなぁ、、、と。

ところが、ある朝、いつものようにアルナチャラを歩いているときに、
ある記憶が湧いてきまして、
それは10年以上前の夢。
このブログでもその夢の話をずいぶん前に書いた気がしますが、

ヨガを始めた頃だったかな、東京で鬱っぽい状態になっていて、
もう仕事も辞めてしまっていたと記憶してるんですが、
ある朝、
杉並区のデザイナーズマンションにて。
起きて、さあ何しよう、ヨガのクラスに行こうかな、毎日つらいな、ああ今日もつらい、
ああ私このまま死ぬのかな、(今となったら笑える^^; 夢だから)
とかなんとか思ってた時だと思うんですが、

突然に、「いや、死ねない!」という強烈な恐怖と、
あと、
音のない世界になって、
正確には音はあったと思うんですが、とにかく静けさしかなくて、
音以外にも、なんにもなくって、
目の前にはお気に入りのグリーンのソファとかあるんだけども、
「なんにもない」、そうとしか描写ができないことが起きました。

で、
鬱状態だったから、ついに私の頭がおかしくなっちゃったんだと思い、
このままではヤバイ!キチガイになってしまう!と、
「どうしたらいいかわからない、ヤバイ状態」と電話したのを覚えています。
母は救急車を呼んで、誰かに来てもらうよう言ったけど、
確か救急車は呼ばなかったのかなー 
ちょっと覚えてない^^;

ヨガの知識でもって、この「死ねない」体験は、輪廻転生を強烈に認識したんだと結論づけていたけど、
今になったら、これが一瞥体験なのかも。
でもね、
このように、後付けで人は自分のアイデアをくっつけて、出来事を変更しちゃうわけですよ、自我は^^;

ノンデュアリティの人は、このアイデアを「ストーリー」と呼ぶ人が多いようです。
この「ストーリー」を自分のものだと思って、「自我」は自分の体験として、
後生大事にとっておこうとする、
でも、
真理において、個人がとっておけるものは何一つ存在しないから(何かを得たという満足感は続かず)、
これが苦しみになる、
というのが、ノンデュアリティのメッセージの一部のようですよ。

こうして「K氏」は無事、一瞥体験というストーリーを手に入れたのであった。

そんな夢の話が湧いてきたので、
書いてみました。
なんか面白くなっちゃって、山にいる間、ずっとニヤニヤしちゃった!

一瞥体験した人たち、これは意味ないっつってたけど、
ほんと意味ないことでした。

一時的な体験は、瞑想やヨガでは起こりやすいです。
特に、アルナチャラで瞑想していると恍惚状態に入ることが多いけれど、
それは続かない。
それでまた戻って来たいって個人は考えるのかな。。。ここに来たら奇跡が起こると。

因果の存在しない真理において、
目の前のことが全部奇跡みたいなものらしいけども、
なにか特別なものを個人のエネルギーは欲するのだそうです。
個人として存在するために。

真理において、
特別なことも、大切なことも、なーんにもないんですけどね^^;

ラマナマハルシも、一時的なものは真理ではないって言ってますし。
起きては去って消えていくもの、永遠でないものは真理ではない、ぜんぶ夢まぼろし。