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2018年1月3日水曜日

わたしの悟り体験談



新年あけましておめでとうございます!
ご縁あってどこかでお会いしましたら、よろしくお願いします(_ _)

はてさて今年もインドで迎える新年です。
なんのことはなく、アルナチャラから初日の出を見ました。
この数年の恒例です~
で、
もちのろん朝からスパイシーなインド料理を 笑

前もって言うの忘れてましたが、ぜんぶ夢の話です。
インドにいるのも、元旦の朝、「ヘイ、おやじ!サンバルおかわりだ!」と
イドゥリやらワダなどのティフィンをたらふくいっぱい食べたのも、ぜーんぶ夢まぼろし。

今日は、ちょっと昔みた夢の話をしようと思います。
たまたま「K氏」、思い出しまして。
「自分」が消えちゃった=自我の消失が起こった人たちは、
(実際には人はおらず、正確な描写を言葉でするならば、
自我というエネルギーの消失した個体に見える一部の表現、とか? 長いのでここでは人とします。)
「一瞥体験」(いちべつたいけん)をしてる人が多いようなんですね。

なりたてスピっ子(スピリチュアルっ子)の「K氏」は、
一瞥とか知らんかったし、読めんかった難しくて、この漢字。

それで「K氏」は夢の中で、思っていました。
私には、そういった夢は起こらなかったなぁ、、、と。

ところが、ある朝、いつものようにアルナチャラを歩いているときに、
ある記憶が湧いてきまして、
それは10年以上前の夢。
このブログでもその夢の話をずいぶん前に書いた気がしますが、

ヨガを始めた頃だったかな、東京で鬱っぽい状態になっていて、
もう仕事も辞めてしまっていたと記憶してるんですが、
ある朝、
杉並区のデザイナーズマンションにて。
起きて、さあ何しよう、ヨガのクラスに行こうかな、毎日つらいな、ああ今日もつらい、
ああ私このまま死ぬのかな、(今となったら笑える^^; 夢だから)
とかなんとか思ってた時だと思うんですが、

突然に、「いや、死ねない!」という強烈な恐怖と、
あと、
音のない世界になって、
正確には音はあったと思うんですが、とにかく静けさしかなくて、
音以外にも、なんにもなくって、
目の前にはお気に入りのグリーンのソファとかあるんだけども、
「なんにもない」、そうとしか描写ができないことが起きました。

で、
鬱状態だったから、ついに私の頭がおかしくなっちゃったんだと思い、
このままではヤバイ!キチガイになってしまう!と、
「どうしたらいいかわからない、ヤバイ状態」と電話したのを覚えています。
母は救急車を呼んで、誰かに来てもらうよう言ったけど、
確か救急車は呼ばなかったのかなー 
ちょっと覚えてない^^;

ヨガの知識でもって、この「死ねない」体験は、輪廻転生を強烈に認識したんだと結論づけていたけど、
今になったら、これが一瞥体験なのかも。
でもね、
このように、後付けで人は自分のアイデアをくっつけて、出来事を変更しちゃうわけですよ、自我は^^;

ノンデュアリティの人は、このアイデアを「ストーリー」と呼ぶ人が多いようです。
この「ストーリー」を自分のものだと思って、「自我」は自分の体験として、
後生大事にとっておこうとする、
でも、
真理において、個人がとっておけるものは何一つ存在しないから(何かを得たという満足感は続かず)、
これが苦しみになる、
というのが、ノンデュアリティのメッセージの一部のようですよ。

こうして「K氏」は無事、一瞥体験というストーリーを手に入れたのであった。

そんな夢の話が湧いてきたので、
書いてみました。
なんか面白くなっちゃって、山にいる間、ずっとニヤニヤしちゃった!

一瞥体験した人たち、これは意味ないっつってたけど、
ほんと意味ないことでした。

一時的な体験は、瞑想やヨガでは起こりやすいです。
特に、アルナチャラで瞑想していると恍惚状態に入ることが多いけれど、
それは続かない。
それでまた戻って来たいって個人は考えるのかな。。。ここに来たら奇跡が起こると。

因果の存在しない真理において、
目の前のことが全部奇跡みたいなものらしいけども、
なにか特別なものを個人のエネルギーは欲するのだそうです。
個人として存在するために。

真理において、
特別なことも、大切なことも、なーんにもないんですけどね^^;

ラマナマハルシも、一時的なものは真理ではないって言ってますし。
起きては去って消えていくもの、永遠でないものは真理ではない、ぜんぶ夢まぼろし。


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