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2018年1月25日木曜日

悟った人に会いに行ってみた件①



こにゃにゃちは。
お元気にお過ごしでしょうか(^^)
こちら、インドという夢の中で、毎日元気&愉快に過ごしております~

※このブログはすべてフィクションです。


なんか笑いが出る。。
めんどくせーうざーってことは、しょちゅうかっちゅう起こるんですけどね。。
インドですから。

しかし、
早朝にお寺へご挨拶にうかがったら、
よく会うおじさんが、ほらよってプラサードのお花をくださったり、
山で朝日を拝んでるとこを勝手に写真に撮ってプリントアウトして渡されたり、
美しいことや愉快なことも多々ありなん。

どっちも同じに笑えます(^^)
だってどっちも、夢の、幻想のお話なので。。。

これまで疑い無く現実と信じていたことが、
がらがらと崩れ去って、「私」は、過去の思い出も、未来への期待や不安も、
なんにも持てなくなってしまいました。

否、
正しくは、

それらを所有する「私」が元々いなかった。
喜ばしいことに「私」は、今やほとんど死にかけています(^^)


このトピックでブログを書こうと思い立ったのは、
この「私」という感覚が不在な時と、すごく存在感が有るときと、
行ったり来たりして、
疑問がたくさん湧いてきたり、居心地わるーい不安な感じになることがあったからなんですが、
今や、
それもほとんどなくなってて、書く気も失せて来てる^^; 笑笑


ラマナマルシだったか、ニサルガダッタだったか、
「喜んで死ね!!」
とおっしゃった意味がよくわかります。

このブログでも、
「非二元」に引っ張ってくれた人や本も紹介しようと思っています~
今、友達から借りて読んでる本は、
「 早く死ねたらいいね! 」
洒落がきいてて、かなり笑える一冊です(^^)


時間と空間がないため、
過去が存在しえない「非二元」の現実では、
カルマ、(ここでは「因果」として使います。)
そうカルマも存在し得ない。

物事に因果関係がない、というのも「非二元」の現実。
だもんで、
はいここで「自我(個人)」には非常に残念なお知らせで~す、ノートとっとくように!

このエネルギーシフトに対して「個人」ができることが何も無いのです。
努力も、プラクティスも、瞑想も、信じることも、祈ることも、
やってもやらなくても、どっちでも、とのこと。 
ま じ か (;° ロ°)(←自我の心の声)

「私」がリアルとして信じてきた、この現象界は、
悲しいかな(自我にとって)、
ただ無意味に、身体や思考や感情や物事が、淡々と起こってるだけ。

悲しいお知らせだよね、、、
あたしゃ(個人としては)、絶望の真実でしたよ、、、
インドくんだりまで来て、一日中、瞑想に時間を費やしてたんだもんよ。
いったいヨガのクラスに時間とお金、いくら費やしただろうか、、、
世界一周の旅とかできたんじゃなかろうか。。

突如、
そこでシフトが、ただ起こるだけ。
ねー もー 完全に、戯れ^^; 神様の悪戯でしかないよ、、、ひどいや。
インド人が「リーラ」と呼んだ気持ちがよくわかる、いま、、、^^;


原因と結果という「因果関係」がない現実なので個人にできることはないはずなんですが、
この「非二元」の現実について話している人が、
「この現実についてのメッセージに触れていると、なぜか何かが起こる」、と言ってたんですねー

それで試していたわけですが
(また悲しいかな、個人の自由意思というものも存在し得ないので、
 誰かが試したわけでなく、正確には、こういうことが起こっただけ)
起こりましたよ(^^) 
(ー でも同時に、実は何も起こってないんです。ふふ。頭おかしくなりそうですね 笑)
ていうか、これが一番てっとり早いんではないかな~

「非二元」の大御所、エックハルト・トールは、
(確かドイツ人。
 インドに来てから興味もったので、まだ本など読んでないけど、
 最近では、ラーマクリシュナのアシュラムなど、大きいとこでも彼の話を取り入れているそうです。
 ラマナアシュラムで、公式にサットサンをやった唯一の外人とも聞きました)

思考を観察する、など方法論も伝えてくれてるみたいだけれど、
ほら、K氏ときたら、怠け者なので^^;
メッセージ聞くだけとか、ちょろいじゃないですか 笑
私は聞くだけ、読むだけ派。

あとは、直に会える人ならば会う。(←今回のネタですね)
話の内容うんぬんより、そういう人の形をした現れは、
それが完全に自我を消失し、ただ「其れ」として起こっているものならば、
同じところに、引っ張ってくれるから。

これがきっと「グル」の始まりなんでしょうね。
「其れ」からすると、グルも弟子もいないもんで、(そんなもん存在したら二元となる)
ラマナマハルシは、自分に弟子はいないって言ってたみたいですけど。



いやはやしかし、
絶対!現実!と信じていた世界が、リーラ(神の戯れ)でしかないって 笑
つまり、
大切なものもなにもない、人生に目的もない、人生で起こるすべてが無意味、ってこと。
個人としては、死にたくなりますね~
はい、喜んで死んでください 笑


「個人」という主体が存在し得ない「非二元」の現実では、
「死」=身体とマインドの所有者は「私」である、という個人の消滅、
「自我」の死を意味します。
これ知ったとき、死ぬのうれしいなって思いました。

これまで瞑想してきたのは、
この「私」の所有する、マインドの浄化のため。
マインドから出てくる色んな感情、
悩みや不安、心配に憎しみ、羨望、欲しいものが手に入らない葛藤などなど、
加えて、
輪廻転生により、すっかり癖になってしまったマインドの習性、
(非二元では、輪廻も存在し得ません^^; これインドで受け入れられんだろうな~)
これらから自由になりたくてのスタートでした。

自分が死にかけてみて、勘違いに気づきました。
マインドで起こることに意味(良し悪し)はないので、マインドに意味付けをしていた個人の消失、
こっちが起こらないと意味がなかったっていう^^;
だからまあ、これまでの瞑想の方向性は、勘違った方を向いてたようです。


簡単に言ってしまえば、「ただいつも幸せでいたい」「心穏やかでありたい」、
人間の探求は何でもここが原点だと思います。

だから、お金や物や地位、結婚や子供、恋愛のパートナー、
目に見えるものに幸せを求めることも、
スピリチュアルなことに幸せを求めることも、
結局は、同じなんですよね^^;

目に見える世界では無理だー、と、探求の矛先がスピリチュアルな世界に置き換えただけで、
ここからすれば、なんら変わり無い。


おおっと、
前置きが長くなりすぎたので、
賢者に会いにいったエピソードへうつります。

概ね、
「非二元」の現実はこんな感じです(^^)
色々書いたけど、かなりシンプル。
「私」がいなくて主体(私)&客体(その他)っていう「二元」が成立せず、
「其れ」しかないので。


それでは、「くまりちゃん、インドで賢者に会いにいってみた、の巻」
スタート!


と、
いきたいとこですが、疲れちゃったー。。。^^;
記憶のあるうちに書きたいんですけどねー
これもただ起こってるだけなので、仕方無し。
我に自由意思なし。
ってことで、お後がよろしいようで~、、、   たはは


次回に続きます。。。   。。たぶん。




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がんばって書くかもしれないし、書かないかもしれない。。
すべては神の戯れですから~ 笑


、、、非二元って、責任逃れというか好き勝手だよなーと思いません?
じゃあ、好き勝手、好きなことだけして生きていーんじゃん!!世界、幻想なんでしょーって。
でも忘れちゃいけない、
それに関してすらも、我々に自由意思は存在しないのです。
だって「我」がいないから。



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