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2018年2月3日土曜日

悟ってしまったらしい件③



こんにちは。
お元気にお過ごしでしょうか。
お寒うございましょなあ~、、、

雪がしんしんと降るのを、あったかい部屋の中から、
ぼおっと眺めるのは好きだなぁ~
ミルクコーヒーとか飲みながら、コタツがあったらサイコー(^^)
(最近はチャイにはまってます、、、
 シナモンいれて、ココナッツシュガーで甘いやつ!
 あのね、
 ジャガリって椰子糖とキビ糖があります、前者のがベターって西洋人が言ってるが、
 たぶんヨガアシュラムで出るやつは、キビ糖かと。椰子糖は高いとよー)

子供の時に、そういう瞬間があった気がする。。
母が雪平鍋で甘いコーヒー牛乳を作ってくれたような。
庭の南天の赤い実に白い雪が積もってゆく様が、
はっとするほど鮮やかで、
あの瞬間に時間は存在しなかった、つまり自我は存在しなかった気がする。。

って結局のところ、過去は夢のようなもので、実在ではないんですけどねー 笑

※このブログは全てフィクションです。


日本だったら幼児虐待の疑いで通報するレベルで、
隣のインド人ファミリーの家からは、
アンマ(母)の怒鳴り声と、子供達の号泣する声が響いております、、、

毎朝そんなによく怒ることがあるなぁ~って感心するのと、
こんな女捨てた金切り声で怒鳴っても、
旦那に捨てられないインドすごいなーいいなー 日本だったら離婚の危機やろばーい、と思ふ。

で、
お父さんが多分アホで、
声と喋り方からそれが滲み出てて、丸聞こえな父親の声にすごい腹立つ。

このアホ父、塀を乗り越えてうちの庭に不法侵入し、
庭の花をぜんぶ持っていきやがる。 この時点で平手打ちしたい。
↑このように、怒りは湧いてくるようです。

昨日も、
うちの門の前で鍵を探している時に、(こういうの不意打ちで腹立つ)
貧乏そーなじじーが、お金をせびってきて、NOって言ってもしつこいから、
「タミル語わからんっち言いよろーが! あっち行け!」
なかなか使わん激しい田川弁で怒ったら、やっと立ち去ってくれた 笑
↑ これは怒りっていうよりは、半分面白がってますが^^;

怒ってもそれで終わり。
あいつ花もとりやがって、アホな喋り方やし、、悶々、、、
とか、
次に彼と会った時に時間をかけてアホな父に考えを巡らすことはない。
そういえば、花泥棒しておったな、という事象だけが、 
脳の記憶として湧くだけで、そこに感情がくっついてないって感じ?

まいっにちうるさいですが~^^;
たまに夜中3時に始まりますから、家族劇場、、、


はてさて、ノンデュアリティ。
K氏の場合、先に言葉から入ったというより、
自分に起きていることを友達に指摘され、「非二元」につて紹介され、
動画やら本やらを読みはじめたパターン。

なので、
そういうことが起こってたのか~
と言葉にしてもらって、わかりやすーい!
でも究極のとこは言葉にならないっていうのもすごくなっとく。
という風。

で、もともと疑い深い性格なんでしょうね。
いや、前世の記憶もないくせいに輪廻転生を信じてるあたり、
洗脳されやすいのかしら^^;

というか、

「輪廻転生=因果応報が存在しないと、人間の平等性はどうなる?!
 人生が、神様が、そんな不公平なわけがない。でないと生きる意味がなくなる。」

という、完全なる自我の生き延びたいがゆえの勝手な持論が繰り広げられてました。
だってノンデュアリティの現実では、生きる意味、人生に意味、ないんです^^;
シフトが起きたら、生きる意味ないなぁ~って。
人生を生きてる「人」が不在になっちゃったから。

だもんで、
大きな家を建てて家族と幸せだぞ! とか、
仕事で昇進して社会にも貢献してるぞオレ! とか、
ヨガを伝えて人々の苦しみを和らげるてるわ! とか、
良い行いをして人として成長する、これが成長だ! とか、

これらの個人の幸せで満足な人には、「非二元」の現実は一切関係ない話。
意味わかんないと思う。
それでいいと思う。
「非二元」の現実に、個人の幸せは存在しません。個人がいないから。




「そこに私の求めてる幸せはない=安住の地はどこにもないんだ、
輪廻があるから死んだって手に入らない、
何したってぜーんぶ同じ。」

瞑想とかヨガとかで、一時的な恍惚感、解放感みたいのはあったものの、
結局、
閉じ込められてる感、不自由な感じ、居心地の悪いところに
戻ってきてました。

いつからか、
「私」以外の何かが、そこに薄々気づき始めていた、というか、、、
気づく誰かも何かも存在しないから、言葉の表現は的確ではないけど、
そういうようなことが起こっていましたねー
「私」は、存在意義がないと生き残れないから、
「K氏はラマナマハルシの真我探究の人だ!」
って主張してましたが^^;


あ、そうそう疑い深い性格の話、
このシフト、友人に指摘されてから、
いや有り得んやろって疑ってるとこがあり、
そのたびに、

「あんた日本では、いい歳してって言われる歳で、結婚もしてない子供もいない、
 年金も払ってなけりゃ貯金もない、親の財産もない。
 お先真っ暗だよ? ほらちょっと焦りなさいって。
 帰国したら、あくせく働かんとヤバいんじゃない?インド来てる場合じゃなくね? 
 でもその歳では~ってボーナスもらえるような仕事にはありつけないよ、
 スキルもないやろ。 
 足腰ぼろぼろ婆さんになっても、泣きながら働きつづける様を想像してご覧なさい!」

と、うちの母がたたみかけるのと同じように、問うようにしてまして。
(正確には、この自問自答とおぼしきものが、その瞬間に湧いてるだけなんですが)

しかしながら、
どーーーーーーーーーーしても!! 
昔みたいに不安な気持ちになれないんです^^;

不安になれよ!焦れよ!って後押ししてもダメ。
不安が起こらないです、、、

シフトが起こっても、怒ったり、悲しい、ガーン!って感情はわいてくる
(最近は、ほぼ一瞬で消え去るようになった w)
けど、不安と心配は湧かないので、

シンプルで自然な感情ではないんですかねー 
確かに、子供の頃って先に対する不安とかなかったかも。

ヨガの人たちの「今この瞬間しか存在しない」という言葉によって、
「先のこと考えて不安になってもしょうがないっ 前を見ましょうっ オレっ」
みたいな、
キラキラストーリーでは、一時的に楽になったような気がしたけど、
(これ錯覚だったよ、残念!)
今みたいな、完全なアホにはなれませんでした^^;

今は本当に馬鹿になったか、脳みその病気かも(ちょっと疑ってます、、笑)ってくらい、
先のことが何も考えられない。。。
考えが起こっても、一瞬で消えて、次の瞬間には忘れてしまう。

あ、そうか、
「不安」というものは未来に対して起こるもの、
でも「個人」の存在しない「非二元」の現実において、未来は存在しない、
(個人=時間軸の中でしか存在できない。個人が消えたら時間軸も消える。)
それゆえ、
不安というものも存在できなくなってしまうのだねー


心配に関して起こったことといえば、
インドに着いてから、熱が出て、1週間くらい下痢していました。
水を飲んでも、お腹が痛くて、がんばって食べてもぜんぶ出ちゃうって状態。

その時に友達に
「マラリアかデング熱の検査をした方がいいかもね」
と言われて、ひとまずネットで、それらの情報は収集しつつ、
口では「心配だなー」と言いつつも、
実はまったく心配してなかったー^^;

心配する前に、もう「心配だなー」ってテキトーに勝手に口が言ってる感じ。
「え?心配って言ってたいま?気付かんかったー」みたいな^^;
周りの方が心配してくれて、気にかけてくれたおかげで、
家で倒れて意識不明で発見される、、、
というよなことは起こらなかったです。

薬飲まず、治しました、とさ。
肉体に関しての深刻さも減っちゃいます。
(もう大丈夫やろーって、チリ入ったインド料理食べたせいで長引いた恐らくw)

ホメオのレメディは取ってたから、ちょっと効いたのかな。
だいぶ痩せちゃいました、さすがに1週間^^;
すぐ戻りましたが、ばばーになって痩せすぎるもんじゃないなーと思いました 笑
とかいう言葉がテキトーに出たけど、
見た目についても、ちょっと関心薄くなってる感じ。
たぶん、
歯になんかくっついたまま外出して、歯だして笑ってること多い。 はずかしー


そういえば、
非二元とエカトーレ(エックハルト・トール)の違いについて分析してるblogを読みました。
ちゃんと彼の本とか読んでないけど、
エカトーレは方法論を言ってくれてるみたいですね。

個人はそこに救いを感じるんだろうけど、
非二元って、
「あなたに出来ることは何もない」って言うから、個人には絶望的なんでしょうね、、、
おまけに人生は無意味。価値がない、なんて ^^;
「今まで頑張ってきたことは何だったのー!!あんなに悩んだのにー!!」
って個人には青天の霹靂さ。

まだ行ったり来たりしてる感覚で、居心地悪い不自由な感じが起こってたとき、
「うわーん(>_<)バガヴァーン!アルナーチャラー!助けてー!」
と、
前みたいに思ったとき、はっとしました。

助けを求める相手もいない、、、
その時、K氏という個人は絶望しました。 すごい落ちました。
ある意味、すごい厳しいのよ、「非二元」。
(あの絶望したことが、ほんの数週間前の話だけど、ずいぶん昔に感じる!) 

そういう時、エカトーレの提示してくれる方法論は
救いに感じるんだろうなーと。。
一部だけ読んだけど、ほぼ瞑想でやってきたことと同じだなーと思いました。

絶望した個人には、「非二元」について想像すると、
世界は全然おもしろみのないものなんじゃないか、と思い浮かぶようです。
だって、
ぜんぶ無価値、無意味、大事なこと特別なことも何もない。


余談ですが、
「大切な人」って友達に言われ、
「え?誰?^^; 大切な人ってなんだっけ? えーっと一般的に家族とかか?」
本気で、こういう思いが湧いてきて、
こういうふとした瞬間に、小さな変化に気づきました。


話をもどして、
おもしろみがない、とは、なんだか違くて、
実際、シフトが起こると、逆。

ぜんぶ無意味で無価値なんだけども、世界が輝く、
というか、軒のみな言い方ですが、一瞬一瞬が奇跡であり、感動、興味深い、おもしろい。

色んな表現があると思うけど、
K氏と名前をつけられた、この肉体の目にうつるもの、体験していることとしては、

草木が風に揺れる様や雲が動く様子、
毎朝太陽がのぼることとか、
自転車で走る早朝の空気感とか、、、

そういったことが、人間よりももっとリアルに映るようになりました。
人の形をしたそれらよりも、よりくっきりしてて興味深いというか、、、
言葉にすると別物ですな。

人の形をしたそれらを見ると、
空っぽだなー とか ぜんぶお笑い小劇場だなー
とか、そういう感じがわいてくる。
友達は、「幽霊が歩いてるようにしか見えない」って言ってましたよ^^;


そういえば、
脳科学者と「非二元」のスピーカー、大和田菜穂さんとの対談の動画で、
「人間が思考する0.5秒前くらいに、すでに行動が起こってる」と言ってました。

なーんだ、科学的に証明されてたんだなぁ~
「私」が、これしよーっと思ってやるんじゃなくて、
これが起こってから、
「私」が自分の意思でこれを行ったと話を作ってただけなんてー



次回、初めて「ノンデュアリティ」のメッセージに出会ったときの話でも、、

また読みたい、と思いましたら、
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