のん気に昼寝をしていたら金縛りにあった。
さて、着替えるか~と寝室にいってそのままあれれーとお布団に。。。
眠りと現実の狭間だったのか、
人がどんどこ上がり込んでくる気配がして、起きて注意しなきゃ!
と思うも体が動かない。 瞼もあけられないという状況。
ごくたまーにあるのだけれど、この感覚、かなり久しぶりで目を開けれないならしゃあないかってそのまま眠ってしまった。
しばらく子どもや大人数人がやいやいやっている気がした。
怖がりだから目は開かなくてよかったよ・・・
おうちの前には、神社がある。
坂本龍馬ゆかりの場所らしい。
神社の参り方がわからず、適当にしたことのバチが当たったのだろうか。
ゆゆゆ許してください。。。
そういうのがわかる人の話によると、やはり京都の古いお家では多いらしい。
京都に来てから、子どものときから時々見る映像を久しぶりにちょくちょく感じている。
たいてい高熱を出して寝込み、不安に駆られて夜中に起きたときに覚えているイメージ。
ごつごつした赤褐色の岩が迫ってきて、ぞわわっていう落ちていく感覚で目が覚める。
最近は朝の瞑想の最中にそのイメージが出てくる。
もしかして、前世ってやつなのかもしれない。 私はそれで死んだのかもしれない。
なんてことを考えながら、じっと見ている。 このときは子どものときに感じたような恐怖はない。
インドでは、1人きりでどんだけ薄暗く寒々しい部屋に泊まっても、こういった微妙な気配もなく爆睡だっただけに全く異なりすぎで興味深い。
そういえば、誰かと、インドには幽霊やオバケはいるのかなって話をした。
あの話の結末は、どんなやったっけ・・・
うーん思い出せん。
きっと私のこと、興味がなくて生ぬるい返事をしたんだろうな・・・
メールを書きながら、よく「気がする」「気が向いたら」「気のせい」「気を遣う」など、気という言葉をよく使っていることに気付く。
よぉく考えると面白い。。。
知らず知らずに私たちは目に見えないものの存在をつかってるんやん。
気が向いたら行きますね、って書きながら、
そうそうまさに気が向いたら、私個人の意思ではなく宇宙の法則を守るために、すべての自然のタイミングが整ったら私は行くんだと思った。
そうそうまさに気が向いたら、私個人の意思ではなく宇宙の法則を守るために、すべての自然のタイミングが整ったら私は行くんだと思った。
そうそうそれから、気といえば。
上の写真は、家主が朝のセルフプラクティスでみょーんっと静かにやっていたアーサナ。
コントロールできない人はジャンプしちゃ危険なシャラバアサナ。 腰ぼきってなりそう。やだ。
ただ足を上げるだけのはずなのに、私は全くできんぜ!
下半身の流れが俄然滞っている感じがあるので、1ミリくらいしか上がってないんじゃないかな・・・
Amboliのアシュラムでも、隣でシータ講師がみょーんっ!と見事に上がっていくのを見るのが好きで練習しないで見ていた。
電池入ったー!みたいで面白いのだ。
二人とも、みょーんっとなる直前に、ふっと何かを待って捕まえた感がうかがえるから、気を読んで捉えた!みたいな瞬間に電池入るんかいな?
シンプルなポーズほど、コツがないというか難しいと思う。 それを維持することもまた意識の集中、精神的強さが要されるので難しいと思う。
ちなみに、この人も去年インドに行ってるときには全然できていなかった。
やっている人に彼女がコツを尋ねると
「 プラーナです 」 と一言返ってきたそう。
すべては気の力。 ですかね。。。
私は地味に足首回したりしながら、プラーナの通り道を浄化して待つとします。