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2018年3月13日火曜日

ベナレスの夢



こんにちは。
お元気にお過ごしでしょうか。

日本は春の訪れを感じる頃かしら。
良い季節に入りますね。


※このblogはすべて夢の話です。


はてさて、
デリーからの便に乗らないといけないってんで、
せっかくなので、久しぶりに北インドにいってみよーかどー!と、
初めて、バラナシへ。

バラナシと言えば、インド1、2位を争う悪名高き観光地。。
若いバックパッカーが沈没する聖地、、、
そんなところに「私」を失った状態で足を踏み入れる、
ノンデュアリティの世界では、どんなことが起こるのか、
興味津々でして(^^)

騙されたりしたら、ちょームカつく、
インド人に話し掛けられまくって、げっそりグッタリ、、、
昔、北インドを一人旅したとき、
そんなだったK氏の変化を見てみたいと、ワクワクでバラナシに足を踏み入れたのでした(^^)

インドは広い、
色んな旅の仕方があります。
南からそのまま電車でいく。(たしか36時間とか)
デリーまでフライトで、電車かバスに乗り換え。(12ー16時間)

貧乏性なもんで、
ラクナウ(パパジがサットサンしてたとこ。デリーとバラナシの中間に位置します)か
パトナまでフライトで、そこから夜行バスで向かうか悩みましたが、
今回は短い滞在なので、
チェンナイからバラナシまでフライトで。

とはいえ、
チェンナイまでバス(4ー5時間)、一泊して空港まで移動、
バラナシ空港からガンジス川周辺までタクシーで1時間、
など、
やはり移動が長いインド、
オート(いわゆるトゥクトゥクのこと)に乗るたびに、
値段交渉して~とか、時間がかかります^^;

前みたいに、値段交渉しなきゃ、、、はぁ、やだなあ、、みたいなナーバスな気持ちはなく、
やっぱり全部楽しくって仕方ないんだけれど♪
オートのお兄ちゃんと話が盛り上がったら、チップあげちゃう余裕っぷり。  
相変わらず、ぜんぶが平等に無意味だから。

それと、個人の消失により、
お金っていうのも、同じに無意味で無価値なものになるので、
(個人的な持ち物っていうのも消え失せます。だって個人がいないんだもん^^;
 聖者たちが「ある意味で、世界を捨てる覚悟が必要」っていうのはこういうことかも。
 ある意味で、ここで見える世界、非二元の現実では、世界は消えてると言える。)

ぼったくられたりしても、何ら問題ではなくなります。
そこで怒りが起こったとしても、ただ怒り、という感情が起こっただけ。
誰に対して起こったわけではない。

個人的なことが一つもない。
「自我」はなんでも個人的に捕らえるから、色んなことが問題になりますが。

だから、ぽいっとお金を多めに渡したりするこが起こってます。
騙される人も、騙す人もいない、ここで起こることは、そういう次元の話。
次元が高いとか、低いとか、高いから良い、低いから悪い、とかジャッジのない次元。


はてさて、
空港から降り立って、
なんと、バラナシ滞在していた友達が空港まで迎えに来てくれる、という
ぜんぜん冒険感のない感じで、街へ足を踏み入れたK氏。

空が、灰色^^;
い、息ができない^^;

地元の人がマスクをしている、
それ即ち、
かなりヤバい大気汚染を意味します。
K氏も最初の2日、喉が痛くなり鼻がつまって目が痒く、
動けなくなりました。(持っててよかったホメオパシー!!)

ちなみに、
空港からオートで行きました。500rp これ相場だそうです。(たまには旅じょーほー)

帰りは、駐車場代として+100rpを請求され、
「ふざんけんなよ、ありえねーよ、こちとらインドの物価知ってんだよ、
ちょっとそこのバイクのお兄ちゃん、駐車料金おしえてくれる?」
バイクのお兄ちゃんをつかまえ渋り、オートのおじさんを黙らせたK氏。
ま、チップあげよっかな、と思ってたので、50rp渡して決着。

なにか文句を言うことにも、躊躇いがなくなります(^^) 
誰もいないから、行動だけが思考なしに無意味に起こる。躊躇う人がいない。
ぜんぶ面白い。

でも思考が起こることもある、何でも起こりえる、
ただ、それをやってる人が誰もいない、というとても単純な話。



ガンジス川はやはり美しかった、、、!!!

友達に連れてってもらったり、瞑想仲間からオススメされたりして、
たった1週間の滞在で、あちこちお寺やアシュラム、エネルギーポイントを訪ねて座りました(^^)

目的のない趣味の瞑想は楽しい♪
(どこか行く場所も、目指すところも何にもないから)
ただ静けさを聞いて座ってるだけなんですけど、
深く深く潜ってる気分(^^)

頭の中の思考すら気にならなくなったから
(思考を観察してる人がいないし、気にする人もいない)、
携帯電話の音も、話し声も、何にも気にならないから、
瞑想は、本当に素晴らしくなりました(^o^)
バラナシはさすが聖地、瞑想、すごく良い感じです。

ご飯もお茶もケーキもマズイから、
ガート散歩して、お寺にいって、瞑想するしか、することない、バラナシ 笑
楽しい!

日本人の若いバックパッカーもたくさん見たけど、
一体なにやってんだろー

あ、
楽器習ってる人は、長期滞在してるそう。
わたしのお隣りさんもタブラ(インドの太鼓)やってて、毎日練習してた。
彼も、毎年長く来てるみたいだけど、
マシになったが飯がマズイって言ってたな~^^;
街の臭さでも食欲が失せるところです。

前だったら、
ご飯もまずくて高い、宿も汚くて高い、街が汚い、花なんて咲いてない、
なんてバラナシに、
ぜんぶ揃ってる南インドから行ったならば、

「南インドに帰りたい~なんで来ちゃったんだろ、、」とか「早く日本に帰りたい、、」
など思っただろうけど、
過去も未来も存在しない今、そういう思考は一切浮かんでこない、
ただ目の前のマズイ飯が、いんちき臭いインド人が、大気汚染の街が、
ただ無意味で美しい奇跡で、面白い(^^)


よくスピリチュアルだったり、サイキックな人にありがちな発言で、
「個人」にとって良いことが起こった時にだけ、
「 必要なものが全部勝手にやってきた 」 というのを聞くけど、
(しかも何か自慢気な気がする、これこそ自我の大好物なエサなんですが。)

ここで起こってることは、
見せかけに起こることは変わらない、「個人」が悪いと捉えることが起こっても、
ここでは、それを悪いと捉える「人」がいないだけです。

で、
ここでは「身体」も無意味に起こってることの一つに過ぎません。
だから、見かけ上、K氏がなにか考えて決断してるように見えることも、
「ぜんぶ勝手にやってきた」ことのひとつなんです。
誰もやってません。
ただ身体が自動的に、瞬間瞬間、起こって、その行動がその瞬間起こった、
そして消えた、というだけ。

「自分」を肉体と同一視する「個人」は、
自動的に起こってることは、
身体(自分)がやってること以外(他者)を意味していると勘違いしてしまうけど、
あくまで肉体もまた、起きてることのひとつです。

ここまで(例えば肉体の動き、思考や決断、選択)は自分でコントロールできる、
自分(乗り物と信じてる肉体)の行動以外は、大いなる力がやってる、
というのは、
とても個人的な考え方、エネルギーです。


前に、パスポートもクレジットカードも現金も盗まれた友達のことを書いたけど、
まさにそういうこと。
見せかけ上は、彼に、不運が起こったように見えます。
でも、実際はそこに彼はいない、「個人的」に出来事を捉える人がいないから、
ジャッジがない。(悪いことが起こった、との判断がない)

彼が怒ったように見えても、実際は、誰も怒ってない、
怒りがただ起こって、そしてそれが消えていっただけ。
パスポートの再発行を求めて、あちこち奔走していても、
それも自動的に起こってるだけ、彼はなにもやってない。

この世界が「幻」や「夢」のようなもの、と言われるのはそういうこと。
ぜんぶ消えていく、夜に見る夢と同じです。

眠っている時に見る夢が現実ではない、無意味なものと皆知っている、
「個人」のエネルギーが消えたここでは、
すべてが、眠ってる時に見る夢と同じでしかないです。

そういう意味で、シフトが起こると、
「世界が消える」とか言われてるのかもしれません(^^)
でも、このシフトや解放と呼ばれるこれは、
個人的な「私」に起こったわけではないです。
これがすごくクリアになる。


Arunachalaで、今まで見ていた夢から覚めて、
別の夢に潜っていき始めた。 でも何かがクリアな夢。

バラナシで、もっと深く深く夢の中に潜っていった気分。。。


ここは今日も、とても静かです。
喜びも怒りも悲しみも葛藤も、個人という分離したエネルギーも、
ぜんぶ美しく無意味。 

そして完璧。



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でも正直なところ、ノンデュアリティの話を書くのはやめるかも?
だって皆、
美しいヨガの話、皆でギャザリングしてハグして涙、、、とか、
個人的なストーリーが好きでしょ。

ぜんぶが同じに無意味っていうのは、、、
例えば悪口や愚痴も、「ありがとう」っていう言葉も全部同じ。同じに無意味。
そこで識別(ジャッジ)や分析が起きない、ということ。
ここでは、因果関係も引き寄せも存在しないんで、
文句言おうが、「ありがとう」と言おうが一緒でしかない^^;

美しい個人的なストーリーが大好きな「エゴ」は、これを理解しないと思う。
こういう発言はムカついてしょうがないんじゃないかな^^; 
とても自然なこと。 完璧。
K氏も、こんな話、聞きたくなかった。

、、、でも、何者にも違いを見ない、というのは、こういうことじゃないかな。
Bhagavan!!って瞑想してた時より、Bhagavanの言葉がものすごくクリアに理解できる。


究極の「救い」、人生で何か探し求めること(探求)の終わりっていうのは、
「私」の死でしかありえない。
K氏が死んでわかりました。

もはや、わかった誰かは存在していないのだけれど。。



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