運命には、
どうしても逃(のが)れられないものと、それから逃れられるものとあるんです。
つまり、身をかわしきれないものとかわし得るものとある。
かわしきれない運命は「天命」という。
絶対的なもので、これは人力ではどうにもしようがないもの。
女が女に生まれ、男が男に生まれたのも天命。
この現代に生まれたのも天命なら、昔に生まれたのも天命。また末の世に生まれるのも天命だ。
これはどうともすることはできない。
しかし、絶対に逃れることのできない天命的なものばかりが人生に襲いかかるんじゃない。
多くの人が苦しみ悩む、いわゆる運命は「宿命」なんだ。
宿命というのは、人間の力で打ち拓(ひら)いていくことができるもの、
絶対的でない、相対的なものなんだ。
ところが、
ところが、
今の人は、打ち拓くことのできる宿命にぶつかったときでも、それを天命と言う。
自分の努力が足らないことは棚に上げて、どうにも仕様がないと言うのである。
そういう人間が人生に生きるとき、ただ偶然ということのみを頼りにして、
そういう人間が人生に生きるとき、ただ偶然ということのみを頼りにして、
その結果、自分じゃ気がつかないが、いつか自分の心が迷信的になって、
すぐ神や仏にすがりつこうとするのである。 - 中村天風
こないだ半身浴で極楽気分になっているときに、
世界は平等でうまく出来ているなぁ~と、浮かんできて、
上記の天風先生の言葉を思い出しました。
一人の人間が人生の中で所有できるものが平等に 10 あるとして、
物的に 5 所有したら、もう半分の 5 は、目に見えないもの精神的なもの。
物的に 7 所有したら、 3 は心の所有。
物質やお金といったエネルギーを手放せば、そのぶん心の、もっと微細なエネルギーを所有できる、
心のエネルギーを手放せば、物的・金銭的に潤う、といった具合でしょうか。
物的・金銭エネルギーを所有することにより自動的に、心のエネルギーが減り不自由さや不満を感じやすくなる、
と言った方が一般的でしょうか。
所有できる 10 を如何に所有するか、循環させるか、
また、その濃度を色濃くするか、どう扱うかは
私たちの行動や心の持ちよう次第で、それを宿命と言うのかな、と思ったのです。
ピュアな赤ちゃんの心にとっては、
何を所有しているかなんて問題でなく、世界はただ美しく平等に映るのだろうなぁ。
観察していると自然とヨガのポーズ、つまり、「自然」の形に体を動かす。
人間の成長とは、
この世界を平等に見る、純粋な心を養っていくことで、
成長を求めヨガをする人々は、
それで24時間がヨガだとか、on the mat, off the matと言うのだと思います。
天命。
友人が書いていたこと、地球に属するヒト科の役目は
美しい地球の自然を愛でること。
一日に一分でも、そうした時間を持つと心がリッチになるように感じています。