-----------------------------------------------------------------------------------------------

2015年4月30日木曜日

Beautiful night ; after party 2...


Namaste.
On Baghavarn's Maha Smadhi day... Nothing in my mind...
The vibrations of Sri Arunachala Akshara Mana Malai, the song for Arunachala Siva,
were so beautiful, full of love...
People who devote to Sri Ramana sing for him.

写真を撮ることにも、意味を感じないほどに、
美しいマハサマディの夜でした。。
Maha Samadhi= 入滅、肉体を離れること
   
バガヴァーン、ラマナマハルシが肉体を離れた日、
たくさんの花々が捧げられ、マハサマディの時間に歌が捧げられました。
嵐のようなスコールが続いた数日あと、澄んだ空気の夜のこと。
ジャヤンティと、このアラダナの前には毎年必ず雨が降るのだそう。
宇宙からアルナチャラへのBlessing…
     
言葉がなくとも…
言葉がなくとも、ハグや大きなジェスチャーなくとも、
あの歌の時間、確かに私たちは大きなものを共有していたと思います。
目を見てナマステだけで分かち合っているのを感じる、
これもまた、
この場所が好きな理由の一つなのかもしれない。
無の中に神を感じることのできる人種、日本人向きの場所ですょ。
大人数の人とその場限りのお付き合いをするのがすごく苦手だから、
それもあってここが好き。自分の内側と向き合ってる人が多い場所。
   
このスコールのある夕方、タイミング悪く街で買い物しており、
ひっくり返したバケツの水を10杯浴びるってこういう感じかな!!!
なんて、
財布のお札までびしょ濡れでリクシャも拾えず、
タミル語しか喋らん奥さんと、えらいこっちゃー!!笑いあい、
糞尿混じった道に足を奪われながら、
(コダイカナルにいる今、思い出しただけで鳥肌が立つほどヤなんだが、
あれぞアルナチャラでだけ為せる技だったと思う^^;)
iPhone故障覚悟で嵐の夜道、
バケツひっくり返し状態のなか懐中電灯アプリを頼りに突き進み、
半ば面白く過ごし、
なんかもうおかしくって色んなことがどうでもよくなった、
浄化の雨。
全てがアルナチャラからのギフト。


Maha Samadhi night...
胸がいっぱいで、
こういう時はお腹もいっぱい、プラーナだわね、
プラーナは愛なのねって静かに感じ入る。
とにかくもう幸せや愛ってこういうことなんだなぁっていう夜でした。
予定になく滞在を延長した
(も、こんな人ばっかりでし、ここ。
初めて来て、これまた延長した友人がうまいこと言ってて、
ここは一週間とか一人で来たら情緒不安定になって終わりだねー、と^^; 
心の消化不良を起こしたまま行ってしまう例をいくつか見ました。
私も最初の一週間下痢してるしね!去年も今年も!!)
旅人日本人も、インドで愛を感じてしまった、、と^^
    
このビューティフルナイトのその延長で、夢のようにルラルラと山に登ったり瞑想したり過ごしつつ、
そろそろバスチケットとるかーと予約しようとしたら何度トライしてもオンラインでとれなくて、
ハッと目が覚めた。やばい。
 
今までこんなことなかったのにー…
が、
今回ばかりは、アルナチャラが止めようとしても流れに逆らっていく気持ちで、
炎天下、バススタンドへ出向き、
久しぶりに釣銭をチョロまかされたりしながらナイトバスのチケットget!
   
いや行く!!私は今度こそここを出発する!強い決意で!
(何度かトラベルプラン変えてるの…)
だから今年の秋にまた引き戻してくださーい、お山に語りかけつつ、
連日の雨ですっかり涼しく過ごしやすくなったので、
一人だとバスをキャンセルしてティルにとどまる、なんてことも考えちゃいそうだったので、
旅仲間を得、一夜の二人旅と相成る。
旅は道連れ世は情けってやつかしら。
   
   
生きることは全てバランス。
ヴェーダチャンティングの力強さと、
タミルパラヤナの優しいヴァイブレーション、
太陽と月、
陰と陽、
男と女、
ここの、このバランスが好きだ。
我々は極端よりもバランス良いとこ、中道にある時に、
普遍の、失う恐れのない幸せの中にいるように思う。
   
上がったものは下がるしかないのである。
来たものは去ってゆくだけである。
変わりゆく極端なものは、不変の真ん中に引き戻ってゆくのである。

だから私は、
幼い頃から別れの悲しみも再会の喜びも大きく表現することを好まないのかもしれない。
異常なテンションの感情表現が子供時代からできない。
↑ これを周りに合わせて不自然にやろうとした結果、
心身が居心地悪くなっちゃたー  あと老けて見られた理由かしら^^;
今もやっちゃうけどね、生粋の空気読む日本人ダカラ。
日本の学校や会社って、
変わり者、協調性ないやつは打たれる、生き残れないということを
子供ながらに汲み取っていたのかな。
もはやそういう生き方の方が、生き残れないことを、
311後の日本で認め始めた人も多いように感じていますが、どうですか?
   
すべては自然に去り、自然にやって来る。
なにも頑張らなくてよい。無理して上げ下げしなくてよい。
自然でいる。
これもまた、ここでの体験が教えてくれたこと、でしょうか…
    
そして、
翌日フェスティバル、多くの人があふれる中、
朝はずーっと瞑想室で座り続け、バガヴァーンのダルシャン。
瞑想室では、
瞑想というより、彼のエネルギーに触れさせてもらう毎日ダルシャンだなぁと今年は思いました。
    
なぜかこの日、久しぶりに腹を完全に壊し、トイレとベッドの往復。。
(何故かっていうか、間違いなくデーツとナッツの食べ過ぎという心当たり大有り!
これにCoffeeで、魔のコンビネーションの出来上がりっ!)
    
アルナチャラから去る前にしっかり肉体浄化のギフトですかね。。
もうしばらく食べれない!ってザ•インド料理もデーツナッツに加え、
いっぱい食べていた。
イドゥリーワッダからのプーリを一枚追加するという、
南インドの朝ごはん全盛りに近いことやってたのだ(笑)
これだけ食べれた自分に、私って若い!と思った!!
欲張りは辞めなさいねっていう心の浄化でもあったかな^^;
    
フェスティバルの後の静かな朝、
ティルヴァンナマライでの最終日は、
ちびっこプジャリー達がおらず大人の熟練プジャリーばかり、
いつも以上に力強いヴェーダのチャンティングがホール中に響き渡り、
何の思考も言葉もなく別の世界に座っているようでした。
さいこー
   
そのまま、もちろんフワッと山へ。
いつもと違うひと気のない岩場を登りしばし坐り、
アルナチャラにしばしの別れを告げる。
そして出発の夜。
   
バガヴァーンを見つめていると、彼が答えてくれたように思います。
しばし涙…
なんて大きな愛をいただいていたのだろう、、、
毎日を、
今日がここでの最後だと過ごすべきだった、と振り返る。
俗世間の別のことに心を奪われている日も多々あった。
時間があると思うと、、、
つまり、未来について考えるということは、人を怠惰で傲慢にするのだなぁ。。
   
私らしく時間ぎりぎりに出発してしまい、(旅仲間に超迷惑ね)
リクシャマンに有無を言わせず、
おっちゃーん、バススタンドまでもち70Rpダーヨーネ?!
で、
何の交渉もなくしゅっぱ〜つ!
しばしのcompanyは、すげー交渉力…と言っていたがそうではなく、
おそらくこのリクシャマンは私のことを覚えていて、
最後に気持ち良く見送ってくれたのだと思う。
このオヤジの粋な計らいもまた、アルナチャラからのギフト、かな…なんて(笑)

(オフシーズンで外人客が少ないから、ってのが美化したい主観を離れた客観的意見w )
   
    
また戻ってこれますように。。
ふだん忘れてしまうほどに、あまりに自然で大きな愛、
まるで母が子に抱く、
地球が我々に常に与えてくれているそれのような。。
これを彼は沈黙の教えの中で教えてくれたように思います。 
   
また呼んでもらえますように、
魂よりももっと深い場所で愛しているアルナチャラへ。
I'm totally absorbed in Arunachala.

Arunachala...





Karma is repeating forever, even if our bodies die.

ボクこんなんなって寝る日もあるでし。木蔭でシエスタ、さいこーでしね。
    
わなかーむ。
少し前の話、ラマナアシュラムのゲストハウスにも、
許可をいただき滞在しておりました。
ポンディに行く前なので結構前の話、か。
    
いやー今季はのっけからカルマ、業というものをビシビシ感じるステイとなりました。
良し悪し両方で、予想を裏切ってくれるアルナチャラ。
    
そして相変わらず熟睡してる感がなかった…
日本でも基本眠りの浅いヴァータですが、ちょっとシャバアサナ状態に近いかなぁ。。
覚めたり寝たり覚めたり寝たり…寄せては返す波のよふ…
   
気づけば朝、昼寝もできじだが、
体調は良いし今は睡眠はそんなに必要なかったってことなんでしょうかね〜
最低5時間は寝なきゃ、とか勝手に思い込んで身体に印象付けているんだろうね、
って同様に寝れない人と落ち着いた。
    
さて今年は、
いただいたお部屋がシェアバスルーム、
そして同フロアにインド人男性きたーー!!
   
はい、昨年のリシケシで同じこと言ってます、わたくしめ^^; ははは
カルマだー   おかしいねぇー
解消しないと何度でも浮上してくるという業なるもの。
    
昨年はアシュラムのヤクザみたいなスワミに、アタッチドバスの部屋に変えて!
と駄々こねたが駄目だったので、今年は黙って受け入れる選択に。
     
トラディショナルうたって足出すな、胸元隠せのドレスコードなのに、
何ゆえ男女一緒のバスルーム使わせるのかー、
ここにせよ、DLS(リシケシ)にせよ。
下働きのインド人男性もシェアバスを使うのが、
神経質ゆえヤダー!って最初は受け入れられなかった(ーー;) 
なにごとも修行となります。。
DLSの場合は食事も完全男女別だから余計に強く思っちゃったのかも。
    
組織に理想を持ち過ぎず精神的にも依存せず、
自分一人でもしっかり努力せよ、と言われているような気がしました。
自分の好きな場所をつい理想化し、ここはどこより素晴らしい、
働いてる人たちも聖なる人々、
自分の先生が最も素晴らしい、
などと勝手に大きな期待を寄せる癖があるので私^^; 
一歩間違うと、
いわゆる盲信的信者、過激な崇拝系のあぶない偏ったひとですね。。
   
最初はシヴァナンダアシュラムでやってしまいました。。^^;
シヴァナンダアシュラムが自分の理想と違った代わりに、
ここに自分都合な理想や期待を押し付けているとしたら、
グル探しに様々なsatsangやWSに参加して迷子になっているケースや、
ヨガのアーサナに執着するあまり、
ゴールを見失うパターンとなんら変わりないなぁ、と見つめ直しました。
別にシヴァナンダアシュラムを嫌いになった、などということでなく、
私の自分勝手な期待による失望だったと気づいたので。自分を見直し。
ガンジス河とスワミジのお部屋を今季訪ねられなかったのは残念至極。
    
そして、
なんの因果か今年もアシュラム内で蜂に刺されたーー!!!
人生二度目の蜂もここ。。。
慌てて薬局に走り、抗ヒスタミン剤とステロイドを飲みました。
ステロイドと知らずに飲み、その夜は下痢。。
不要な物が出て行くペースが早いアルナチャラにございます。。
数ヶ月いて慣れてきて、
調子に乗るなよ、お前は外国人なんだぞっていうMessageでしょうか… 
    
あとは、
めちゃくちゃ古い記憶と、
つい最近の新しい記憶の浄化が同時に起こったりして、
混乱からの号泣があったり、新しい出会いに救われたりなど、
なんだか涙もろくなったりしました。
そんな感じで、様々なdeep purificationが自動的に起こっている、ような?
   
ここではこういう時、
「ただ静かにしていなさい、あとは私にまかせない」(だったかな?)
というバガヴァーンの言葉が響き助けてくれます。
   
自然は、ただ静かに在ることの偉大なる先生。
静かに在り続ける天才ですね〜
    
そおなんだよー  ラマナ大学で教えられてるとおり、
マインドが作用している限りは、
因果応報の法則や輪廻からは逃れられないんだわん。
   
しかし、
シェアバスとはいえ昨年と違いお湯が出たし、
屋上があり洗濯物もよく乾き、
(去年は日当たり悪く丸見えで気を遣ってたなあ)
次に借りる部屋にも近く、荷物の移動も楽、
いつも夕飯抜きのとこを三食お茶付しっかり食べたので、
運動がてらのアシュラムまでの距離有り増量は少しで済みそう、
など、
よくよく考えてみると、実は望んでいた通りのことが起こっていたりして、
なぁんだ、と納得でした^^;
   
ちなみに今年のお部屋。
ベッドを除けたりプロップ代わりに使いながら、
ぎりぎりマットを敷いて練習できる感じ。
食事の時間との兼ね合いで朝4時からしか練習する時間がなく、(日本でやったことないぞ 笑)
インド修行の旅感が今年も出てきたんじゃない、これ^^♡ 
なーんて。
    
ベーシックなポーズしかできないが、
真っ暗い中練習しているためか研ぎ澄まされ、
日中も瞑想的に過ごしやすいしやはり早朝ヨガはいいですね^^ 
マット一枚から広がる世界、繋がる宇宙、永遠の体感、
シンプルでやっぱいーなーと思いました♡
    
持ち物を減らしていくにつれて、
自分に必要な物もだんだん減っていく。
それは幸せと自由を得ることでもある。
(ガンディー 魂の言葉)
   
山あり谷あり、平等になにかあるのが人生、
前向きに、修養に励んでおりまーす。

Arunachala...
    
アルナチャラを仰ぐたび、
山の形を見ているのでなく、
自分の核心を見せてもらえます。
内なる師の存在を教えてくれる。
このため、人々はこの山に引き寄せられるのか。
山に坐るときが一番気持ち良い。
そこでは五分が永遠に感じられる。
居眠りすらサマディになるそう。。
   
飽きっぽい私、自分でも不思議だが毎日登って飽きない。
アルナチャラが呼ぶように目覚ましなし、早朝に目が覚める。。
ハッ呼んでる!って感じるというか^^;
来なくて良いよって言われるかのように、
絶妙なタイミングで朝寝坊する日もあったりして。アルナチャラ=内なる声だわね。。
ヨガもなんだかんだ続いてるしなー
宇宙の流れに沿った選択、必要なことならば飽きないのでしょうね。

Arunachala...






2015年4月29日水曜日

Mirage of Southern India


なますてじー
こんにちは。
南インドは冬から春はスキップして、ものすごい日差しであります。
帽子かぶって雨傘、これお出かけ時の最近の標準装備。
真っ黒に焼けてますが^^;
いかがお過ごしでしょう。

お父さん、お母さん、
あなた方の心配はよそに、
娘はとても元気な上、日本に帰りたくないほどですんで、ブログを読むのはやめてください。
書きにくい。
便りがないのは良い知らせ、
日本にいる時より断然イキイキしてます。
ご安心を。
    
てな感じで、
両親が読んでいることが発覚し更新がしづらい今日この頃。。
妹の旦那が教えたんじゃなかろうか、あいつめ、と恨んだりしています。。
    
日差しは強く肌に刺さるように痛いものの、
風は涼しく乾燥しているので、九州の夏のような不快感はないかも。
汗もサラリ。
京都の夏よりはまだマシかなー^^; スイカしか食べれずバテた。
良いとこだが、気候は厳しいなぁ京都。。
ここの暑さもまだ序ノ口で、
そのうち家の中がオーブンみたいになるらしいのですが、
日中出歩くと、聖典が教えている通り、
この世は蜃気楼だー 全てマボロシだー
てな感じで、世界がゆらゆらしてぼぉっと映ります。
  
低体温のためか外気と温度が変わらないらしく、
この肉体と空気の境目が感じられず、完全にこの世界は夢、幻、
っていうことを体感させてもらえています^^; 良いんだか悪いんだかなー
    
完全に外人シーズンもオフに等しく、
朝の瞑想タイム、とても集中して座っています。すべてが静かで美しい。
山から見る世界の目覚めと朝の美しさ、
この人生でここに辿り着くよう導いてもらった運命と、
あと少ししかここに居れないことを思い、
毎日、一瞬一瞬を大切に過ごさなきゃ、
これが当たり前じゃないんだってちょくちょく涙ぐんでいます^^; 
   
特にこのブログを書いた日の、日の出は美しかった。
繊細な宝石のような白いクレセントムーンが、
太陽の輝きに空へ消え行ってゆき世界が目覚める。
心も頭も完全に空っぽ。

いつも今この瞬間を生きよう!と思っていたいのに忘れちゃう。
まだいれるーと思うと、ちらっとリシケシに行きたいな、、、
なんて言って航空券を探していた己の心の傲慢さですわー 
    
インドのガイドブックを見て、
特集されているヒマラヤの美しい写真を見ても全く行きたいと感じなくて、
私はここで満足しているのだなぁ、と思う。
日本にいると、そういう高く青い空の写真に、旅に出たくなることがありませんか?
私も例に違わず。
満足してないんだろうなぁ、と思います。
どこか遠くへ!と遠くへ行っても、何ら変わらないのだけれど。
ということはこの数年のバリやインド暮らしで学んだこと、かな。
本当はいつも全て満ち足りていて完璧なはずなのに忘れてしまう、
思い出すために忘れずに生きるために、
私はこの場所を訪れているのかもしれない。
    
ここでのこういった修養の日々は、
縁あって生まれ、今のところ年の半分は暮らしがある日本で過ごす時間も、
ここで感じるようなこの充足感と共に生きるため、でもある。
なんだろうねぇ、日本のあの停滞感^^;
インドにいると、とても客観的に見えるが、
自分も日本にいて、あの特有の停滞感に巻き込まれてしまっているときには見えないのよね。。
たぶん帰ったらまた多少ウジウジするんだろうが、三歩進んで二歩下がる程度だけど確実に進んでる、
くらいの大らかさで、またアルナチャラに来て集中的な修養ができたら良いなと思う。
静かに座る時間をもって客観性を保ちたいな、と思う。
    

インドによく来ている友人も言っていたけれど、
きたないのもドロドロした部分も含め、
日本で無駄とされることの多くのために、
インドは本当に美しい。
    
基本的にインド人がイケスカネー私がインドにこんなに長く居れるのは、
この体感した者にしかわからないであろう美しさゆえ。
しょっちゅう中指立てたい衝動に駆られ、未熟だわーと思ったりしてる。
   

お墓に造花を飾ることを良しとした頃から、
インドを通して見れる目に見えない美しさが、
日本から消えていってしまったように思う。
日本人が無駄だ勿体無いと省くところがインドでは優先されるのだ。
   
どこから摘んできたの?っていう量のたくさんのロータス。
ある一日の護摩焚きのためだけに用意されていた。
    
毎日、日に何度も、
大量の花々が目に見えない世界へと見返りを求めず捧げられる。
老いも若きも貧しきも、
毎朝、毎夕、女達はジャスミンや薔薇の花をその長い黒々とした髪に飾る。
    
こんなの一日しかもたないもんねぇ。。
   
もう一度言うけれど、私はインド人が好きではない。
シータ由美子講師もBlogで書いていたけれど、
基本的に男尊女卑だし、カースト外の我ら外人は軽く見られる。
日に一度は石を投げたくなったり、
(石を投げたくなったのはインドが初めてです… )
ツーリストプレイスでは、外人から金もらおうって基本的にがめつい人々、
一体何をどう食べ暮らしたらそうなるんだっていうような動物みたく太った「ばばぁ」の
(世界中のマダムの中で、この言葉が一番似合うのはインドのおばさん達だと思うわー
これ以外にしっくり来る名詞が浮かばないんで許してください^^; )
背中や腹の肉をつねりたくなるし、
オヤジのハゲ頭を後ろからはたきたくなるし、
じじぃ!!とか、
もうっバカッ!
ってつぶやくこともしばしば^^;
動物みたいに音のする方へ、食べ物のもらえる方へ押し寄せる人々に、
嫌気がさすことも多々、、
   

それをおしても、、
   
インドは美しいなぁ〜、と思ってしまう。
     
ハンドレッドパーセント(100%)インド人と結婚するなんてことはない、
と断言できるほど、私はインド人がいけすかない。
(結婚して住めばいい、なんて言われるが、
いればいるほどに、天変地異が起こってもあり得無いなーと確信をもつ^^;
絶妙なバランスで、親切にされたりお茶目な部分を見せられたり、
日本で会わないような清らかな人物に出くわすため、
彼らを一括りにして憎めはしないけれど。。)
   
このため、
やや悔しいながらなんだが、
インドにいると、
美しいなぁーと思っている瞬間が多いのだ。
    
Arunachaleshvara



I'm a Japanese!


毎日まいにちたくさんの花々が見えないエネルギーに捧げられ、
それもあって、
ここは愛に満ちています。愛を感じやすい場所、
折に触れ涙ぐんでしまいます^^; 
ここにいる人々のアルナチャラ、
バガヴァーンに対する愛がモリモリで感動しているんだと思います^^;
   
さて、
キッチン付のお部屋にうつったものの、
ガス使うと暑いし時間がないから外飯でいっか〜、
という日が続いていたのですが、なんだか身体が重くて自炊をしたら、
身体も気持ちもスッキリしました。
   
やはり私は日本生まれの日本で多くの時間を過ごしてきた人。
インド人にはSatvicであろうピュアベジタリタンの食事でも、
私の身体と心にはRajasicな影響があったようです。
   
こちらは日本人の方が作ってくださったゴハン〜
ほんのり薄味でとてもとても美味しゅうございました。
日本食って優しいなぁ。。
(南インドでポピュラーな揚げ物のvadaiは私が買ってきた。ぶち壊し^^;
でもこれを食べてサモサに興味なくなりました。
豆の粉で出来ててサクサク美味しいの)
   
しかしながらインド飯に舌が慣れてしまったため、
すごい量の塩を投入しないと味がしなくなっており、
日本に帰国したらば戻さなければ病気になっちゃうなーと思います。

なんとかかんとか言いながら、
やっぱり時間がないので簡単なものしか作らないし、
南インド料理は嫌いじゃないから外食もしちゃうんですけどね〜
  
適当に。
バランス良く、
生きる。
   
Bhakti...


バガヴァーンの教えとヨーガ


なますかーる。こんにちは。
   
今日はちょっと小難しいトピックについて書こうと思いますので、
興味のない方はスルーしてくださいね。
     
こちらの本を読書中。
難しくてなかなか進みません、、、^^; 
日本だと絶対!!読めないからティルで頑張ってます!!
私の場合は、ここでの体験を通してじゃないと入ってこない内容と言いますか、、、
これを日本で読んで理解できる方はすでに解脱の次元で世界を見ている、
or 修練を積んで解脱の次元間近の方ではないかな、と思います。
    
バガヴァーンのヨガについての言及がなるほど、と
思うものだったのでメモついでにシェア。
質問者の知的レベルに合わせ、彼がどこまでをヨガと指し応えているか定かでなく、
おそらく体操部門やプラナヤーマだけを指し、
質問者に受け答え指している場合もある気がします。
それが霊的教えの特徴らしいのですが、時々わかりにくいので、
ヨギーはちょっと混乱するかも、と思いました。
なので最後まで読んだ方が良いと思いますー
    
でも、バガヴァーンはちゃんとサマディまでの段階もヨーガと指し、
(しかし、彼の言うサマディとラージャヨガの言うそれは別物で、
つまるところ真我探求まで向かってゆく、とのこと。
サハスラーラチャクラにクンダリニが達しても、
チャクラが開くとかそういったことにとらわれてゴールを忘れては意味ないよんって。)
カルマヨーガのこともバクティヨガ、ジニャーナヨガのことも言及しています。
あくまで、わかりやすくまとめてくださった編者の方、
ならびに翻訳してくださった方を介して、
我々の手元に来ているのでバガヴァーンの直接の言葉ではない、
ヨーガを勉強している方は、そのへんも汲み取って読んだ方が良いかも。
  
彼の教えを理解するのに十分だとバガヴァーンご自身すすめてきた小冊子、
「私は誰か?」が巻末に掲載されていますが、
最初に読んだ時よりも、すんなり入ってきました。
これに彼の教えの全てがあるんだなぁ、と。
   
第13章 「ヨーガ」の項目は、ヨギー必読、
第21章「カルマ、運命、自由意志」は、
生きるとは何ぞや?死とは?死の先があるのか?と、
真剣に考えてる方には参考になると思います。
自我の一切ない、生ける屍(風呂トイレ以外の時は褌一丁で常に人前に晒されてた人です)
と呼ばれたバガヴァーンの言葉なので納得。
とても納得できるものなので、私はここに来るのだと思います。
    
特定の宗教観を越えた、包括的な解説で、
客観的にヨーガ体系というものを見れる気がします。
これもまた、彼自身に何の執着もないからだろうと思います。
何度、彼のお写真を見ても、一人の人間として感じられない。
アシュラムの大きなお写真に挨拶して、
目をじーっと見つめるけど、毎日違う表情で違う人のように見えるんですよね〜
私の心の状態なのだろうなーと思いながら、今日はどうですかね?バガヴァーン?
と毎朝うかがってみています^^ 
叱られる日もあれば許してもらったような日もある、不思議な写真があるのですよー
     
この章で、
「彼はハタヨーガをその身体への固執ゆえに批判している。」
「プラーナヤーマに対する彼の評価はより高いもので、心を直接制御できない者にとっては有益な助けとなると言った。
だが、概してそれもまた初心者のための訓練と見なしていたようだ。」
「シュリー•ラマナは彼の帰依者たちにクンダリニー•ヨーガを勧めたことは一度もなかった。
なぜなら、それは潜在的に危険なものであり、また必要もないと見なしていたからである。
彼はクンダリニーと呼ばれる霊的な力やチャクラの存在を認めてはいたが、
たとえクンダリニーがサハスラーラに到達しても真我の実現は起こらないと言った。
彼によれば、最終的な実現のためにクンダリニーはサハスラーラを超えていき、
アムリタ•ナーディ(パラナーディまたはジーヴァナーディとも呼ばれる)」を通って下降し、
胸の右側にあるハート•センターに入らなければならないからだ。
真我探求はクンダリニーを自動的にハート•センターに送るため、別のヨーガの訓練の必要はないと彼は説いたのである。」
     
この記載、目から鱗。確かに。
人助けより真我実現する方が世界の助けになる、
まずは自分を救いなさい、それから世界が何と言うか聞きなさい、
と、なるほどー
「前記以外にもヒンドゥー教のなかには行為のヨーガ、カルマヨーガと呼ばれるもうひとつのヨーガが存在している。
この体系の実践者は非利己的に他者に奉仕することによって得られる霊的進展を目的としている。
『バガヴァッド•ギーター』はそれを高く評価してはいるが、
シュリー•ラマナは概して帰依者たちにこの道にしたがうことを勧めなかった。
なぜなら、それは善い行いをしようとする〝私〟と、助けを必要としている〝他者〟の存在を前提としているからである。
そのため、ある特定の帰依者がジニャーナ、バクティあるいはラージャ•ヨーガの道にしたがうことができないと
彼が見なしたときに限ってそれを勧めたのだった。」
     
などなどのくだりがあるためか、
けっこうヨガに批判的寄りな人が多いんですよね、ここ^^;
で、ヒンドゥー教のカルマヨガ。
私はその説明にイマイチ納得いかず妥協せず、
カルマヨガと名付けられたヨガ施設で提示されるアレコレをやらないしやってこなかった、
そういう風な運命に乗らされていたのだな、とバガヴァーンの説明により納得しました。
シヴァナンダTTCの説明より、私には腑に落ちるカルマヨーガの説明を
得ることが出来たので、同じ感覚の人は読むと良いかも。
     
腰痛予防とか股関節痛めないように、浮腫みとり、
などなど健康にも良いし、
ビギナーにとってハタヨーガは瞑想の助けになりますョ。
    
魂の容れ物である、神様から与えてもらった肉体に、
責任を持たなきゃいけない立場だと考えており、
ちゃんとした保険にも入れないので病院にも行けないってんで、私は今の立場に合わせ身体のケアしています。
去年座りすぎて歩くのも困難なほど足首痛めたから用心してます ^^;
   
   
----------------------------
  
マノラヤとは、思考の動きを一時的に抑えた集中を意味する。
この集中が止まるやいなや、以前のように古い想念や新しい想念が急激に湧き上がってくる。
そしてこの一時的な心の静止がたとえ千年つづいたとしても、
誕生と死からの解放である心の完全な破壊に至ることはけっしてない。
それゆえ、修行者はつねに油断することなく、
「この体験は誰に起こったのか」、「この喜びを体験しているのは誰なのか」と尋ねなければならない。
この探究なしでは、彼は長時間のトランス状態あるいは深い眠り(ヨーガ•ニードラ)に陥ってしまうだろう。
この段階における霊的修練の正しい指導者の不在がもとで、
多くの修行者が偽りの解放感覚のとりこになって惑わされてきた。
そして無事に目的地にたどり着いたのは、ほんのひと握りの人たちだけだったのである。
   
{ ヨガニドラが最近、日本で流行ってますが、
バガヴァーンの教え、ジニャーナヨーガの道が向いてる段階にある人達は、
ニドラは必要ないです。
リラックスの方法の一つとして楽しむのはとても良いと思いますが、
きちんとニドラの位置付けをわかっている指導者から教えてもらうことをお勧めします。
本気で自分のエゴとかから解放されたいと考えているならば。
なぜならニドラーに関するバガヴァーンの以下の言及参照。
一時的なエクスタシーやトランス状態は、ヨーガのゴールではありません。
無知を払いのけ真実を照らす智慧がヨーガ。}
     
心が暗闇のなかで真我と融合した状態がニドラー(眠り)と呼ばれる。
それは心が無知のなかに没入した状態である。
心が意識のなかに没入した状態がサマーディと呼ばれる。
サマーディとは目覚めの状態で絶えず真我のなかにとどまることである。
    
-------------------------

心を殺す唯一の方法は、その源を見いだし、それをとらえることである。
そうすれば心はひとりでに消え去るだろう。
ヨーガはチッタ•ヴリッティ•ニロダ(心の活動の静止)を教える。
だが、私はアートマ•ヴィチャーラ(真我探究)を教える。これは実際的な方法である。
チッタ•ヴリッティ•ニロダは眠り、気絶あるいは飢餓状態によっても引き起こされる。
その原因が絶たれた瞬間、想念は再び起こってくる。だとすればいったい何の役に立つというのだろう?
麻痺状態のなかでは平和があり、不幸はない。
だが、麻痺状態が消えれば不幸も再び起こる。
それゆえ、ニロダ(コントロール)は役に立たず、その効果も長つづきしないのである。

では、どうすればその効果が持続するのだろうか?
不幸の原因を突き止めることによってである。
不幸は対象物を知覚することによって起こる。
もし知覚されるものがなければ、
それによって引き起こされる想念もなく、不幸も一掃される。
「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の問題である。聖典や聖者は、
「対象物は単なる心の創造物にすぎない」と言っている。それらは実質的な存在をもっていない。
物質を調査してみなさい。そしてこの表明の真実性を確かめるがいい。
すると、客観的な世界は主観的意識のなかにあるという結論に達するだろう。
それゆえ、真我こそが世界に浸透し、それを包み込む唯一の実在なのである。
そこに二元性は存在せず、それゆえあなたの平和を妨げる想念も起こらない。
これが真我の実現である。真我は永遠であり、その実現もまた永遠のものである。
    
{疑問や悩みから解放されたい人は、
ラージャヨガで立ち止まらず、
真我探求か明け渡しへ向かいましょってことでしょうか。}

--------------------------------------

グルとは真我である。ときおり、人は人生に満たされなくなり、
自分の持っているものに満足ができなくなる。
彼は欲望を満たすために神に祈り、それを通して心は徐々に純粋になっていく。
彼は神を知りたいと願うようになり、世俗的な欲望を満たすよりは神の恩寵を求めるようになる。
そのとき、神の恩寵が現れはじめる。
神はグルの姿をとって帰依者の前に現れ、
真理を教え、さらに彼と親密に交わることによって彼の心を浄める。
帰依者の心は強くなり、内面に向かうようになる。
瞑想によって心はさらに浄化され、わずかなさざ波さえない静寂のなかにとどまる。
その静かな広がりが真我である。
グルは外面と内面の両方だ。外面からは、心が内面に向かうように後押しをし、
内面からは、心を真我に引きこみ静かになるように助ける。これがグルの恩寵である。
神、グル、真我の間には何の違いもない。
  
{グルがいなくても、あっちの次元で生きてる人が近年多いですね。
先日お話した方とも言ってたんですが、時代性でしょうか。
内なるグル、真我で在りながら生きている人たちなのでしょう。
最近のスピリチュアルな表現を借りるならば、
所謂、アセンションと呼ばれるものでしょうか。
皆さんはどっちの次元に生きたいですか?
私は、彼らと同じ次元で世界を見たい、普遍の自由に気づいていたい、
と物質的快楽や地位名声、金、子孫繁栄を手に入れるよりも、
今生は強く願うので、修養を続けているのだと思います。 }
   
-------------------------------------

Question: どうすれば自分の師を見いだせるのでしょうか?
    
Bhagavan: 強烈な瞑想によってである。
    
--------------------------------------

Question: ヨーガとは合一を意味しています。
いったい何と何の合一なのかと不思議に思ってしまいます。
   
Bhagavan: まさにそのとおりだ。
ヨーガは、以前に区別があって、のちにひとつのものが別のものと合一することを意味している。
だが、
いったい誰が誰とひとつになるというのだろう?
あなたは探求者であり、何かと合一されることを探し求めている。
もしあなたがそう仮定するなら、あなたから離れた何かがそこになければならない。
しかし真我はあなたに最も近いものである。そして、あなたはつねにそれに気づいている。
それを探し求め、それとして在るがいい。そうすれば、果てしなく永遠に広がっていく。
そしてヨーガという問題もなくなるだろう。
いったい誰にとっての分離(ヴィヨーガ)だというのだろうか?
   
----------------------------------

身体との自己同一化を完全に放棄くることこそが呼気(レチャカ)であり、
「私はだれか?」という探求を通して内側に消え去ることこそが吸気(プーラカ)である。
唯一の実在である「私はそれである」(I AM THAT)としてとどまることそが維持(クンバカ)である。
これこそが真のプラーナーヤーマである。
   
------------------------------

Question: ハタヨーガは効果的に病気を払いのけます。そのため、
それはジニャーナヨーガの必要な準備段階だと唱道されています。
    
Bhagavan: それを唱道する者たちにはそれをさせればいい。それはここでの体験ではない。
すべての病気は絶え間ない真我探求によって効果的に絶滅されるだろう。
心の健康のためには身体の健康が欠かせないという考えに沿って進めていくなら、
身体の世話にはきりがないだろう。
身体そのものがひとつの大きな病気なのである。
この病気に打ち勝つためにわれわれがすべきことは、ただ静かに在ることだけである。
   
{痛いのやだ!病気やだ!
っていう癌家系のビギナーなので毎日ハタヨーガやってます。
癌になって死にかけようが、子宮や乳房やその他臓器がなくなろうが、
ワシはこの身体ではない、死にかけようが身体に勝手にさせておくが良い、
っていう段階の方はハタヨガなど要らないと思います。}
    
---------------------------------

Question: ハタヨーガは助けになるとよく言われるのではないでしょうか?
   
Bhagavan: ヴェーダーンタに精通した学者たちでさえ、その修練を続けている。
さもなければ、彼らの心は静まらないからである。
それゆえ、ハタヨーガをしないかぎり心を静めることができない者たちにとって、それは役立つと言えよう。
   
{ハタヨガはビギナーに役立つ手法とのことで。
ハタヨガは瞑想の準備なのでその通りですね。
私は周りの多くの友人がヴェーダンタを学び始める中で興味持てずにいたんですが、
バガヴァーンの教えに出会い、結果あれこれ納得しました。
周りに流されず、自分に正直に生きるのが一番、
周りのヨガの先生達ががやってるからやったほうがいいのかなぁ…と迷わずよかったです。
私にとって必要な学び、バガヴァーンの教えを、
前知識(ヴェーダンタ)との葛藤なしにダイレクトに受け取ることが出来ました。}
    
-----------------------------------

多くのアーサナとそれらの効果がヨーガの聖典のなかに述べられている。
座はトラの毛皮、干し草など。
坐位は蓮華座、半跏趺坐など。
ただ自己を知るだけのために、なぜこのようなことが必要なのだろうか?
真実は、真我から自我が立ち現れ、それ自身を身体と混同し、
世界を実在だと誤解し、そして利己的な慢心から夢中になってアーサナを探し求めるのである。
このような人は彼自身がすべての中心であり、すべての現れの土台をつくり出していることを理解しないのである。
アーサナは安定した坐りをつくるためにある。
真我以外のどこに、どのように、揺るぎなく住まうことができるというのだろうか?
これこそが真のアーサナである。
全世界がその上に揺るぎなくおさまっている土台(アーサナ)、それが真我である。
それは真の知識の空間、輝かしい基盤。
この知識から逸脱することのない安定を達成すること、
それが優れたサマーディのためのアーサナである。

{こういう風なのに、
瞑想室の前でこれ見よがしにアドバンスアーサナやってるインド人(たぶん外人に教えてる)がおり、
同じハタヨガ練習生として恥ずかしくて立ち去りました。
だからハタヨガに批判的な人が、この地で増えちゃうんだから辞めて欲しいー
本くらい読んでからアシュラム内で自己主張してくれ。
    
こういう風なので、去年まったくリシケシでハタヨガのクラスを受ける気になれずでした。
エゴを捨ててゆくためのヨガなのに、エゴ丸出しの先生に教わって果たしてそれは叶うでしょうか。
なので、
ひたすらスワミジのエネルギーを感じられる場所で座ることに徹したリシケシ滞在でした。
ヨーガの学び、生きることの学び、自分にとって必要なもの、目的は何だろう、
周りの情報に惑わされず感じとってください。
その目的は、すべての始まりであり中間でありゴールをも意味するそうです。
そこに幸せ、内なる平和を見出すのだと思います^^ }
 
------------------------------------
    
すべての人が同じように幸福、あるいは賢明、あるいは健康であったことは一度もなかったし、
これからもけっしてないだろう。
幸福、賢明、健康はその対極がないかぎり何の意味ももたないのだ。
だが、
あなた自身より不幸な人や苦しんでいる人を見たときは、
慈しみをもってできるかぎりの救いの手を差し伸べ、
苦しみから解放するよう助けなければならない。
実際、
あなたはすべてを愛し、すべてを助けなければならない。
なぜなら、
これがあなた自身を助ける唯一の方法だからである。
あなたが人や生き物の苦しみを和らげようとするとき、それが成功してもしなくても、
もし「私がこれを行っている」という利己的な感情を抱かず、
「神がこの奉仕を通して私を使ってくださっている、神が行為しているのであって、私は道具にすぎない」
という精神で行えば、あなた自身、霊的に進化していくだろう。
他者に与えているものは、すべて自分自身に与えているのだ。
もしこの真理が理解されるなら、他の人びとに与えようとしない人がいるだろうか?
誰もが自分自身の真我なのである。
誰が何をするにしても、誰に対して行うのであったも、それは自分自身に行っているのである。
   
-----------------------------------

カルマヨーガを推奨しないのに、最後のお言葉に、深い揺るぎない愛を感じますね〜^^
個人レベルの愛というより、
母なる地球、自然の愛と同じ感じでしょうか。
    
マザーテレサの居る時代にマザーハウスででボランティアしていた方が、
(当時のインドの壮絶な話を伺うことができました。
今のインドは、その当時に比べ清潔で何の不自由もないしとても快適ですよー! )
この地に数十年暮らしていらっしゃり、マザーのところを経験しても行き着くところはここですか?
と尋ねたところ、
バガヴァーンの教えに出会った時に、確信があったのだそうです。
    
さらに、最後の章でのこの言葉。
    
----------------------------------
    
「行為者である私とは誰か?誰がカルマを始めたのか?」
と問うことで、自己の真理を知ること、それがカルマの本質である。
カルマを為す自我が探求によって消去されるまでは、
カルマ•ヨーガの報いである至福の平和を達成することはできない。
   
-----------------------------------

無欲が智慧である。
二つは別のものではない。それは同じである。
無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。
智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。
言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、
真我をけっして離れないことが智慧である。

---------------------------------

Question: 解脱を熱望する者にとって、
意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探求する必要があるでしょうか?
   
Bhagavan: ゴミを捨てたいと思っている人にとって、
その中身を分析したり、それが何であるかを調べたりする必要がないように、
真我を知ろうとする人にとっても、意識の性質を調べたり、
その構成要素を分類して数えたりする必要はない。
彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけることである。
世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。
    
--------------------------------

Question: 探求と瞑想の違いは何でしょうか?
  
Bhagavan: 探求とは、真我のなかに心をとどめておくことである。
瞑想とは、自己をブラフマン、
つまり存在ー意識ー至福であると思いなすことである。

------------------------------
    
長くなったので、この辺で ^^
書きうつすほどに、書いてもしょうがない内容だよなーと思いつつアップしてみました〜
     
すべて本からの引用ですので、
勝手に宿題やらレポートなどで使わないようにしてくださいね。
勉強なさってる先生にはバレます(笑)
      
      
ヨーガの先にあるもの、
生まれたならば、
誰もがいずれ通らなければならない道について書いてあります。
死ぬほど辛い体験を経て、スピリチュアリティを求め、この地に来る方もいますが、
私と同世代の多くの人たちが、↑というよりも、
ナチュラルで生まれた時からそっちに向かっている気がしています。
その体験を言葉で知って、なるほどー!と感じるにはオススメの本です。
    
本音としては、
こういうもんは口で説明のしようがないので、
アルナチャラに来て体験するのが一番手っ取り早いと感じています。
運命が早く動く場所だと思うので、不要なものが早く出てきたり、
起こるべき業が早く起こったりするようです。
   
いつかアルナチャラツアーやりましょー ^^

↑  出た!!叶わないいつか発言〜
過去も未来もなく現在しか存在しないんだったわー
    
アルナーチャラ!
と、一度称えることは、
ॐナマシヴァーヤ!と一千万回唱えることに等しいそうです。
      
Arunachala...
  

2015年4月16日木曜日

After party...

フルムーンのティルヴァンナマライ、
ぷらだくしなろーど。
くまりちゃんの毒舌に磨きがかかる日でありまーす(笑)
こないだ自転車を初めて借りたが、
これまたインド人へのcomplainが口をついて二秒ごとに出てくるので、
もう二度と借りないっ!と思った。
あんまり悪口言うと、口がへの字の悪口顔になっちゃう。
精神衛生と美容のために穏やかに過ごしたいです^^; 
勝手に出ちゃうの、インド人への面白つっこみ悪口が… 
なんの因果だろふか。
    
さて、お元気にお過ごしですか?
満月にこの聖地にいると、満月のことをキライになりそうです。。
満月関係なくオレの予定をこなそうとした結果、
この人混みを逆流する形となり、
「もうっばかっ!」と首を振って小さく地団駄を踏んだ前回のフルムーンです。。
    
静かに輝くお月様が好き。
アルナチャラを愛でるよに静かに、だが強く輝きを放つここで見る星々が好き。
夜明け頃の青くなりはじめの空、
華奢な宝石のように白い光のクレセントムーンを見つけた時の幸せ。
夕暮れ時に人がたくさんいる場所を避けて、
ふと見上げた時に見つける一番星の輝きが好きだ。
    
こんな私なので、パーティなどというものはyounger daysに卒業し、
このところ坊さん、
もしくはお婆さんみたいな生活を好むようになってしまったわけだが。
クラブミュージックとか踊れるJAZZは好きで旅に携帯するが、
実際の夜遊びはもういいなぁ、そこに喜びを見出せない、と思ふ。
    
この聖地で「パーティ」とウェスタンpeopleが呼ぶものに、
一度は行っておくか、と誘われたので行ってみた。
   
が、
やっぱそんなに楽しくねーーーー(笑)
煙いし酒くさいし、早く帰って寝て明日も早起きして山登らな!!
とか考えてしまった^^; 
私は元来の若年寄りのようだ。
おそらくティーパーティーの方が楽しく感じるように思う。。
たくさんのお喋りと無意識に食べ過ぎた料理の後に残る、
心の虚しさ思考の忙しなさと胃腸の未消化具合。。
   
インドの祭の後の静けさを、
特に、
本当にこの地を好きな人だけが、祭に関係なくルーティン通り、
アシュラムで山で、祈る静かな朝を私は愛す。
が、
これはそれと異なる。
若りしに日に経験したあの心許なさなのだ。お久しぶりですね〜
   
ひとつに、あの心許なさが何であるか無意識にだが知りたくて、
いつの間にかこういった追求をしている形になっているのであろうから、
やはり必要な経験だと行き着くわけで。
そして職業柄か、適度に楽しく人と付き合い過ごすことも可能ではあるが、
静かになると、私の好みでなかったなー、とハッキリとわかる。
日本だろうがインドだろうが、一緒なのである。
   
しかしながら、
ヨーロピアンホストのおもてなしは、日本人にはないスマートさがあり、
とても好ましく良いなぁと思った。
(特に男性の動きが素晴らしいですね。
きほん皆フェミニストで、美しい言葉をかけてくれる、
九州で育った私には特にそう映るのかも。
若い世代は多少違うかもだが。)
色んな人とお付き合いする場があると、
もっと英語で喋りたいなってモチベーション上がるのも良い!
英語の勉強にも熱が入ってるもん、このところ!帰る間際の今更ね(笑)
    
ここティルヴァンナマライもすっかり外人のツーリストシーズンを終え、
祭のあと特有の静けさ、わびしさが漂い心地よく、ある意味で美しい。
ニッポンの心だわね。  わびさびー
   
もうすぐ何度目かの27歳の誕生日がやってくる。
(ちょっとクルクルパーなので時々聞き流してくださいね。。)
   
この体とマインドの性質や意味を知らなかった若りし日とはちがう。
    
…No no, また二十七歳、若いんだったわっ
    
うちのルーフへせり出す、隣のマンゴーツリーからもいだ若い実。
早くとらないとお猿が全部食べちゃうの。。。
おいしく熟れますよーおーに。
   

2015年4月10日金曜日

Something Arunachala teaches me


That is truth.
Arunachala Ramana shows me about the inner Guru.
    
When looking up that mountain, not look that shape.
So I don't need the photo of this mountain.
It's senseless for me.

That mountain makes me feel my heart. 
That means things fulfill around there, people call Love or our natures.

Aruna
Sat Chit Ananda
Arunachala...


I feel Loving and Praying every moment in India.
Especially here, Arunachala for me...
I don't wanna leave here.


皐月の頃には帰国しますよってに。

夜明け頃のアルナチャラ。

なますてー
めちゃくちゃ暑くて昼間は家でじっとしとく、
そんな日々です。
ま、ヨガしたり読書したり汗だくのものたちを間髪いれず洗濯したり、
冷たい飲み物を作ったりと、やることは色々あって、
日本にいる時同様、じっとしてられない貧乏性は相変わらず。。

また引越しまして、一人暮らしagain
いやはや楽しかったハウスシェアリング。
女の二人暮らしって楽しいの…
たぶん男子や女同士の同居をしたことない人には想像できんくらい楽しいょ…
ふふふ…
   
去年もインドで二人暮らししていたけど、
日本人の女の子なんて世界標準で綺麗好き度高いし、
幸いなことに、私が出会う日本の女子たちは可愛いくって逞しくて洒落ている。
皆、強く明るく元気でウィットに富んでいる。
たとえ心折れる日があっても、
それを糧とし前を向けるバランス力とキラキラ輝く生きる力をもっている。
そして、
私の知らない世界について教えてくれる。
その新しい世界は、小洒落てるし地球に優しくてスマートときたもんだ。
今年は、テーラー遊びを教えてもらいました^^
布好き系でない私も、今や旅の時は布が必須、
生地屋をのぞいてしまうようになった。
インドは、まったく布が楽しい!
次は北インドでも布をみたい!!

あ、ふんどしパンツ、少し大きいサイズも作ってみました。
帰国したら詳しく書きます^^

インドではビジネス後回し、もっとワクワクする魂の喜ぶよなやりたいことがたくさんある。
日本だとビジネス第一優先、多くの人にとって。
私はその現代ニッポン人の慣習をうまく利用して、
マイペースに生きる術をこの数年で習得した。
仕事があるんで〜って言えば強引に誘ってくる人がいないからね。
ふふふ。。

自称ヨガ講師の私にとって、
自分のヨガの練習はもちろん、仕事、と呼べるし、食べるものを作ることも洗濯をすることも仕事、
アルナチャラに登ること、こうしてインドで暮らすことも仕事の一部なのだ。

今回の同居人は、遊べば遊ぶほどお金が入ってくるようになったそう。
つまり「そうゆうこと」なんだろうなーと思う。
私も遊ぶようになって、人生そのものが仕事になってからの方がお金に困ってる、
というネガティブな思考がマインドからなくなった。
量で言えば、意識的に貯金するのやめたので二十代より絶対的に少ないが、
代わりに別のエネルギーを得ているもの。
お金も単なるエネルギーのひとつです。
   
すべての魂が平等な宇宙で、どうして自分だけが多くを持てるというのだろう。
けっきょく神様からどこかの時点でプラマイゼロにされちゃうならば、
成功してやろう、人より多くを得てやろうなどと画策するだけ無駄、
一呼吸ごとに自然を感じ、世界の美しさをいとおしみ、
大いなる存在に任せてしまったほうが自然に生きれるように思う。
   
新しくうつった部屋はこんな感じのなーんもない部屋、
良く言えばNYのアーティストの部屋、みたいな。
はい、言い過ぎますた^^;
これにベッドルームとキッチン、バスルームがついてます。
    
ヨガマット敷くこと前提に間取りを見るので、
テーブルも何もないのは不便ではあるが、
つまるところ素晴らしいのだ。
便利過ぎるということが、
結局はとてもナンセンスであること、インドで暮らしてさとったこと。
しばしの同居人は、この2.3 年携帯電話を持たずに暮らしてるそう。
しかも大都市、東京で。
   
こちらに半年近くも滞在していて、なぜmobileを持たないんだ?!と、
多くのご年配者に驚かれるけれど、
われわれ世代にしてみれば、日本にいると嫌と言うほど電磁波が身近にあるのに、
なぜわざわざインドでまで…?ここで仕事もしてないし、、 という感覚。
   
私達の方が、ティーンの頃から携帯やベルをもっている世代なのに、
電波なく人生の半分以上を過ごしてきたはずの人々の方が、
この便利さから離れられなくなっている現象たるや。
   
昼に外出できなくなった幸い、
規則的にアーサナのプラクティスができるようになってこれはこれで良し。
暑い時は涼しくなるし、寒い時はあたたかくなるし、
バランスをとってくれるヨガからはやはり離れられないなー。
特にこういった厳しい気候の場所を旅する時は必須。
こんなに暑くてもやはり足首は冷え、浮腫みやすくなっている。
とても靴下を履く気になれないので、やはりヨガで呼吸でもって、エネルギー循環からの血液循環へと促す。

My holy place.
    
このマットはもう六年くらい使ってるかなー
清い気持ちでヨガをする時、心を清めようとヨガをする時にだけ使ってきた、
山の次にスッと心静かに座れる私のホーリープレイス^^ 
練習が終わると、
むしれたマットが体中そこかしこにくっついてるので、
このひととは今回の旅でバイバイ。

この後の予定をころころ変えているけれど、
ビザは五月頭に切れるため、この国で不法滞在はマズイらしいしで、(バリでは一日いくらか払えば良かった)
しぶしぶ航空券を予約。
マレーシアとヴェトナム経由で真っ直ぐ帰ります。
案の定、安いチケットなのでトランジットが十数時間あるタイプ。
ここで寝れなかったぶん寝るっきゃない^^
   
この土地にイヤな印象を抱く前に心地良く過ごせるうちに去って欲しい、
という人もあるけれど、
私はこのくらい、
この気候だと生きていけないかもしれないっ!命の危機っ!出なきゃっ!
と思えないと離れられないので、暑さが後押してくれ助かりました(笑)
暑いのもあるが、ファン(扇風機)に疲れてきた…
   
あぁ…アルナチャラに、すっかり恋に落ちちゃった人みたいになっている。
ひとつの場所に執着する生き方は向かないタイプだが、
これは恋というより愛、
あまりに自然にあたたかくそこにいてくれるものなのだ。
それゆえ、
離れた時にこそ恋しくてたまらなく感じる。
   
今年もまた、
私はアルナチャラから離れて、一体どこに帰るというのか?
という気持ちで去年と同様、空港で放心するに違いない。
   

それでも私は、
これまた離れ難い母国に帰ります^^♡
帰ったら帰ったで、日本ってやっぱしいーよねー♡
と思えるバランス力もまた、
アルナチャララマナがここでの体験を通して教えてくれたこと。

about6:00am from Arunachala