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2014年3月14日金曜日

ジニャーナマールガの危険?

    
ハッピーマハシヴァラトリ!
シヴァの聖地であるここ、ティルヴァンナーマライ、
人、人、人、人でした。。 
前回のリシケシの時みたいに、
インド人ツーリストから一緒に写真撮って〜とせがまれる^^; 
もはやインド人は日常だから私は撮らないし話しかけないですけどね、一切(笑)
女学生ちゃんとか話しかけたそうに笑いかけてくるのよね〜  
全員相手にしてたら、
何度もMy name is Kanakoという羽目になり時間ないからゴメンね、と思いつつも、
話しかけられるうちが花かしらん?
    
前回の満月同様、シヴァラトリは私にはエネルギーが強すぎるようで、
フワフワ地に足がつかないボンヤリした感じでした。。
瞑想中に関しては断食の時みたいな体の痛み(おそらく排毒)がきて辛かった〜…
アルナチャラではいつも通り地から宇宙へ流れる〜って感じで
心地良く座ってたが、
祝日のアシュラムはヒンドゥのエネルギーが強烈過ぎるよう。
一晩中プジャやチャンティングをやってたり、
お友達もギリプラダクシナやるっつってたが、
いつも通りサクッと帰宅。眠いのー
     
日本にいてもインドにいても祭や人混みは同じに避ける… 
ホーリーもアシュラムから決して出ないつもりサ。。
    
よもや半年近く居ると、旅の態でなく日常のように感じます。
去年は半年しか日本にいなかったし、
その前は長野や京都や東京を移動してたりして、
日常と非日常のボーダーがよくわからんの。。
むしろ去年の半年日本が、
車を運転して自損事故おこしたり、家族の買い物に付き合ったりして、
非日常で不思議な暮らしだったな〜、と思う。
田舎に引きこもって、人との接触あんましなかったもんな〜 笑
     
インドってほんと祭日多いですよねぇ。。  まったく羨ましい。
四ヶ月いただけで日本の倍以上は人が集まる祝日があった気がするよ。。
     
        
ラマナマハルシの示す真我探求は、まさにジニャーナヨーガ、知識の道。
ヨガのTTCやらコースに出てる方はご存知でしょうけれど、
一番難しい道とされています。
ラージャヨガやカルママールガ、バクティマールガよりダイレクトなんだけどね。
    
私の体感としては、
目に見える感覚的な実践ができないぶん頭でっかちになるために、
難しいと言われてる所以があるんではないかと思うのですがどうでしょ?
     
だってマハルシの教えを自分の教えのように説教してくる年配の西洋人、
ぜんぜん物欲だらけなんやもー  
それってなんか違くない?
バガヴァーンは真我を常に感じるようになったとき、いわゆる真我実現の状態に入ってしまった時、
同時に、
カルマ、バクティ、ラージャ(瞑想、サマーディ)、
もちろん謙虚さ、というものが自然になってたように思うの。
フンドシ一丁、裸足でアルナチャラの中で生活してて、
持ち物は水差しと杖だけ。。お金にも決して手を触れることはなかったという。。
なにかに欲張ってる雰囲気ではないですよね…
       
ヨガが肉体的に難しい人には真我探求、
とバガヴァーンはおすすめしてるけど、確かにその通りなのだけど、
もし怠け心や傲慢さからヨーガやプラナヤマやカルマといった努力をせず、
瞑想してる(風を装ってる)のだとしたら、ラマナが言ってることと違うように感じます。
そこに、
傲慢さや怠惰があるから注意深く観察し気づいていくのが始まりかな、と。
     
もちろんマハルシのように、
前世で行を積んでいて一気にいけちゃう人はジニャーナだけで良いんでしょうけど、
      
すごく極端な例え話、
いま視力や足を失ったとして、
「この肉体が目や足を失ったのであり、私は完璧な存在のままだ、
痛みは身体の感覚器官に属するものであり、
痛みに執着するのは心、
私のものではなくただ過ぎ去ってゆくもの、
全ては内側に存在するから視力など無関係だ」
とは思えないもん。
血だらけの肉体を見て痛くて怖くて泣き叫ぶだろうし、
自分の目玉や足など落ちていようものなら確実に気絶しちゃう ^^;
      
その点、ヨガってやっぱ入りやすいように思います。
感覚器官にダイレクトにくるから肉体を通して体験できて容易。
プラナヤーマに関しては、
寝たきりでもない限り椅子に座ってもできますし、
アシタンガヨガ(ヤマ、ニヤマ)は実生活の中で実践できますしね。
      
ひとたび無知が消え去れば努力は必要ないそうだけど、
それまでは無知を取り払うのに、
目に見える形のPurifyや、
Be good, Do good.という努力は意味があるように感じています。  
    
一日5時間はアシュラムで坐り、
財産も寄付することが帰依でしょオッケー、
って安心して、
モンキーハートの欲望のままに寝て食べて喋って怒って、
見返りを期待して行為してるのに気づかないでいるとしたら、
それぞまさに無知かなぁって。  
       
私は今世でバガヴァーンみたいになりたいなどと大きな望みは持っていないし、
ヴェーダンタやアドヴァイタやらインドの小難しい哲学を極めたいとも思ってない、
人生楽しく、こころ楽に、ハートの感じるままに、
幸せに、
平和な世界で、他と共存しながらあたたかな気持ちで漂っていきたいだけ。
先の見えない不安や心配にまみれた人生なんて真っ平御免だなって、
とこからヨガとか瞑想を続ける羽目になってしまいインドくんだりまで来てしまった次第…
     
元気に年をとって、若者に迷惑かけず、
背筋しゃんと、筋の通ったことをする、見ていて気持ちの良いババァになって、
潔く、我が人生に悔いなし!って死ぬのが目標^^
    
だもんで、
インドでもヨガや瞑想がんばってますよ〜 
テキトーに遊びながら。
でもかなり真面目に取り組みちゅう^^ 
このバランスが非常に楽しいです。
 

『ヨーガは精神活動の制御(チッタ•ヴリッティ•ニローダハ)を教えます。
しかし私はアートマ•ヴィチャーラを教えます。これが実際的な方法なのです。
精神活動の制御は、眠りや気絶や飢えによってももたらすことができます。
しかしその原因がなくなった瞬間、心は再び現れ出て来ます。
それがいったい何の役に立つと言うのでしょう?
昏睡状態においては平和があり、不幸はありません。
しかし昏睡状態から出たとたん、再び不幸が起こります。それゆえ、
ニローダハ(制御)は役に立たず、その益も長続きしないのです。
それでは、どうすればそれを永続させることができるのでしょうか?
それは不幸の原因を探し出すことによってです。』
  
バガヴァーンってばサイコー  笑!
ヨガで迷子の人たちには苦言でしょうか。
この地が、探求者のfinal placeだと言う人が多いのも納得な、
マハルシのこの発言ですよねぇ。。
ちなみに、
スワミシヴァナンダもスワミチダナンダもバガヴァーンを訪ねていらっしゃったそう。
ご縁を感じるのも納得〜
     
すべての学びを求める生徒であり先生である同志たちが、
外であれ内であれ、
素晴らしきグルの存在に気づき、平和の下、魂の旅路を歩んでいますように。
    
OM Tat Sat
      
    
     
『 真剣な探求者に対して、あれやこれをしなさいと指導する人は本当の師ではありません。
探求者はすでに自分の活動に対して苦しみ苛まれて、平和と休息を求めています。
言わば、活動を止めたいと願っているのです。
もし、師がこのうえ何かの活動をするように指導するなら、それが探求者の助けになるでしょうか?
活動は創造です。
活動とは、人が生まれながらに持ってる幸福を破壊することです。
もし活動が勧められるなら、助言者は師ではなく殺し屋でしょう。
そのような状況は、
師の姿をした死に神(ヤマ)、あるいは創造の神(ブラフマー)が現れたのだと言えるでしょう。
そのような人に真理の探求者を解放することはできません。
彼は束縛を強めるだけです。
     
    

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