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2018年5月2日水曜日

なにも繋がってなかった件



気がつけば5月!
お元気にお過ごしでしょうか。

やっとあったかくなってきました~ か?
私はまだまだ靴下3枚はいて寝ていますが。
冷え取りグッズは日本では必至。

肌寒いとき、シルクのロングパンティなるものを着用してみたら、
包まれるあたたかさ、肌当たりの優しさに感動。

しるくふぁみりーのマーガレットシリーズです(^^)



先日ふと気づいて、へえ~と思ったことなんですが、
世界はなにもリンクしていなかった、ということ。
淡々と興味深かったです。

その時の状況は、ちょっとおもしろすぎるため、ここでは書けないのですが、
別の例えで。

行きたくないな~ やりたくないな~ イヤだな~
という感情が起こることと、
実際に、その行きたくない場所や、やりたくないことをする状況が起こることは
無関係だということがクリアになりました。

具体的には、、、
私はアルナチャラを早朝に登ります。
朝7時前には、お腹すいた~~!!って山から下って来るから、
一目散にご飯を食べたい、ゆえに誰とも話したくないんですね^^;

特に話が長い友人とか、英語で喋れないといけないってなると、
もう腹はペコペコで、英語脳にまわすエネルギーはない。
日本語でさえ、話を聞く分のエネルギー分は空っぽ。

「あ、前の方から外国人の友達が登ってくる。やだなぁ、早くご飯食べたいのに、、」
この感情が起こります。

でも実際に、友達と話し始めると、この感情はもう存在しません。
早く立ち去りたいな~という、前に起こった感情からつながる気持ちが湧いてこない。
(湧いてくるかもしれないけど過去の出来事とは、なにも繋がりはなく起こるだけ)

1分前に起こった感情と、
友達と話すという出来事、この人物は、 なにも繋がっていない。
瞬間瞬間に、なんの関係もなく、
出来事 感情 感覚 思考 それらが起こっているだけ。

言葉にすると分かりにくいです^^;


その時、ただその感情だけが起こっただけで、
人物も出来事も存在していないし、
その後、実際にその出来事が起こったとしても、その感情とは無関係。
その感情はもう、どこにもない。

誰もいない、というのは、その感情や感覚、思考の持ち主がいない、ということ。
友達がうまい例えをしていたけど、
「分厚いタイヤみたいなものに阻まれてる感じ」
そういう感じで、感情のくっつきどころが、もはやない。
実は、最初からなかったけれど、「私」という幻が勘違いして、
「私のもの」にしていただけ。


このことがクリアになって、
原因と結果なんてものが存在しないこともクリアになりました(^^)

因果関係、これは最後まで存在するんじゃないか、と疑っていたから
すっきりした。

「解放」はインドで起こった幻か?と思っていたけれど、
そう思わせるほどに、ごく当たり前になってしまったようです。

なんの疑問もなく、
ただ起きてることが起きてるだけ。 

ただ それ だけ。
それ しかない。 


このblogを検索すると、「すべてに意味がある」というログが出てくるみたいですね^^;
360°変わって申し訳ないですが(笑)
「ぜんぶ無意味」でした(^^) すべてに何も意味はないです。
意味を持たせていたのは「私」
「私」は幻想で、ずっといませんでした。
「私」だけが、明らかなそれを知りませんでした。


起きてることが起きてるだけ。それ だけ。
起こる「べき」ことなんてない。 する「べき」ことなんて存在しえない。


ノンデュアリティについて調べていたときに、どなたかのblogだったと思うけど
「淡々として面白みのない世界だった」
みたいなことが書いてあったけど、

このノンデュアリティの現実は、何か一時的な体験とか、なくなったり変化するものではなく、
何かと比べて面白いとか、楽しいとか、幸せとかそういった相対的なものではない。

それ しかない。相対しようがない。
起きてること、すべてが それ。  

それ しかない。
永遠の気楽さだけが淡々といつもある。 それが「それ」
怒りも悲しみも欲も 「それ」

でもこの、何とも比べようのない永遠の気楽さも、楽しさも、
誰のものでもないのです。

ぜんぶ 「それ」
そして私たちはみんな それ。

これでもない、あれでもない、すべてを否定してしまった時に残るもの、
それが 「それ」


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2018年4月20日金曜日

熊印ふんどし



今年も作ってました、ふんどしぱんつ。
残りわずかですが、どうぞお問い合わせくださいまし^^


こういう、、、
ナチュラルライフとかも正直どうでも良くなってきてますが、
どうやら世代的に、こういうのが好みなジェネレーションなんだろうな~と。。
座ったときに、パンツのゴムが痛いのと、跡が残るのが好きではないので、
引き続き、ふんどし履いてます。おす(^^)


前は、田舎で自給自足とかやるのが素敵~自然の中で手作りの暮らし素敵~
うらやまし~いいな~

なんて思っていたけど、「羨ましい」という感情も起きないようです。
どっちも良いんですよね、都会でばりばりお金稼いで使うのが好きだろうが、
山の近くに住んで、いわゆる自然な暮らしをしていようが^^

ここでは全てが自然であり完璧。

要は単純に好みや時代によるものであり、
どちらにも意味も価値もないから、どっちでも良い(^^)
ジャッジが起こらないのは、「私」の不在によるものみたい。

ノンデュアリティの現実は、、、たのしい☆




【 趣味の瞑想と呼吸法 】
出張にて週末のみ受付。

1時間 3名以上 おひとり2000円
     2名      おひとり3000円
     1名の場合            5000円

交通費実費で頂戴します。(福岡県筑豊拠点)


少しヨガも組み合わせたい、ノンデュアリティの話をしたい、
などアレンジ可。

フルのヨガクラスをご希望の方は、お問い合わせください。
(こちらも週末のみ受付)



2018年4月14日土曜日

こうじ君と甘い暮らし

みずみずしいエネルギーをお友達が届けてくれた。
あけてびっくり☆うっとりうるおい~
私のお肌と踵はまだカッサカサ~

こんにちは。
健やかにお過ごしですか。

4月だというのに、雨降りだったりするとまだまだ寒い。
全国的になのかな。
桜はすっかり散ってしまいましたな。。

帰国してから、やっぱり毎日食べちゃうものと言えば、甘酒!
インドでの暮らしで唯一、恋しかったものって甘酒くらいかな。。。
と言いつつ、、、
いや、無いならないで全然おけー!でした 笑

こないだのインド滞在は、キッチンのないおうちだったから、
3ヶ月、ずーっと外食だった(^O^)
そういうのも、あんまり気にならなくなったナ。
美味しくて、下痢しないならオッケー。
否、むしろ下痢は超オッケー☆
揺さぶれた時に、誰もいないことが明らかになりやすいから。

帰国して、特にインド料理を欲することなく、毎日お味噌汁!
前日からとったいりこ出汁で母が作った味噌汁に、
昨年仕込んだ手前味噌を入れ、野菜や海藻を増やし、すり下ろし生姜、
豆乳で割った味噌汁が、とても美味しい^^

手前味噌は1年くらいがちょうど良いみたい。
2年ものは、からかった。(九州ではしょっぱいのも、からいと言います。)
今年は、甘めで作ろうと、こうじ君が冷蔵庫でスタンバイしている。


食べ物にこだわり無くなる、ジーヴァンムクタは多いのかも。。
ジーヴァンムクタって、なんとも大袈裟な表現!
肉食に戻ってる人もいるな~

ときどき、ニルヴァーナ同士で話すと
開けっ広げに色んなトピックが飛び交って、面白い(^^)
(ニルヴァーナってなんとも大袈裟! すいません、おもしろがってます)

人の文句を言うな、とか、愚痴は聞きたくない、とか、ジャッジがないから
そういう線引きが一切ない。
美しい話も、ゴシップも、同じに飛び交う。
言葉もすべて、誰もいないところから、湧いてきて消えていくだけの無価値なものだと、
「私たち」以外のなにかが、すべてわかっているから、気楽さだけが在る。

「あるがままに」
っていうのは、けっきょく「私」の不在でしか実現し得ないのかも。
あるがままの究極の自然を、こねくりまわして歪めて見るのが「私」。


カルマヨガも、
「私」がいる限り、無理。起こり得ない。
ヨガでは悟れない、ヨガだけ一生懸命やっていたら、
「私」は何億光年も生まれ変わって修業したのかな~っていう風にここでは見えます。

でもそれも、別に真理とは一切関係ないから、
そういう言葉がここで起こってるだけで意味はないです。
早い段階で、ヨガやめてといて良かったなぁという思いが湧いてるだけ。

「一体誰にとってのヨーガなのか?」ラマナマハルシの言う通り、
ヴィヨーガ(分離)が存在して初めて、ヨーガ(合一)が存在できる。
分離は存在しない幻想、ならば合一も幻想でしかない。
クンダリーニもチャクラも、気にするな、それに意味はない、という
ラマナマハルシの言葉を信じて良かった~


ハタヨーガは、肉体の健康維持に素晴らしいのと、
趣味なので、毎朝やっており、
(というか、選択も自由意思もないので勝手にヨガが起こってるだけなんですが^^;)
帰国してから、気候の変化によるものか下痢をしていたけど、
ヨガのおかげで、おなかの調子がととのいました^^
素晴らしい~


Bhagavanが言っていた通り、
私が誰か、見出だしたとき、カルマの道もバクティの道も自然に起こる、と。
そういうことだった。

Who am I?   
この「私」が見出だされたら、なんの疑問も湧かなくなる。
この「私」が見出されてなおも、世界が存在するだろうか、苦しみは存在するだろうか。
「私は誰か?」これが1番の近道だとBhagavanは言う。


そんなわけで、(どんなわけだよーう)
毎日、手前甘酒&手前味噌生活。
帰国したら、甘酒がすごく流行っててビックリ~
市販のものより、手作りが美味しいですぞ~

しょうゆ麹で食べる納豆も美味しい、
塩麹を少々加えた、
米粉&雑穀粉で作るココナッツバナナパンケーキも相変わらず美味しい~
お友達からいただいた、ディカフェのコーヒーととてもよく合う。。

あめつち珈琲、こちらです → http://www.ametsuchi-coffee.com



私は身体がもともとあまり強くなくて、
添加物とか消化のよくない肉魚類(あんまり好きじゃないし)、食べすぎると、
湿疹や頭痛や嘔吐しちゃうことがあるため、
今も基本はベジタリアンの玄米菜食だけれど、
食べたいなーと思ったら考えずに肉でも、市販のお菓子でも何でも食べている。

何でも有なんですよね、
ただ、そこに誰もいないから、強いこだわり(執着)みたいなものは
消えてなくなるみたい。

解放のおかげか、インド帰国後、激太りもせずに済んでいます。
甘酒のおかげか、解放のおかげか、インドのおかげか、代謝が良いみたい。
(解放が起きて、体温が上がったという人もいる)
解放が始まったとおぼしき頃から、食べ物への執着は減ってきてた。
昔、中毒のように食べていたパンに関しては、食べても美味しくない、と感じるほど。
ま、どうせ身体はからっぽだから、そんなに気にする必要はないんでしょうな~
食べたいものは食べるぜい。


今日も変わらず、ここは静かです。
何でも起こって、そして何も起きていない。
誰もいない、なににも意味はない、特別なものは何もない。
すべて同じに奇跡。



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2018年3月28日水曜日

日本つれづれ



こんにちは。
バラナシの短い滞在を終えて、帰国しております(^^)
楽しかったな~バラナシも、、、
またゆっくり訪ねたい場所がひとつできました♪
いきなりインド初めて女一人で、出かけることはオススメしませんが、、^^;

いつもパンジャビ(インド服)着て、
髪もバレッタでとめて三つ編み(インド人のおばちゃんスタイル)とかしてたので、
うざいほどインド人には声かけられませんでした。
そういうのも今や、面白がって喋ったあと、自分勝手に立ち去ることができる。
単におばちゃんになったのか、解放の影響かは知らないが。

わざわざそんな私に声をかけずとも、
若くて、太ももやら乳やらの形をあらわにして高そうなカメラをぶら下げた外人だらけ、
そりゃあそっちに声をかけたくなるってなもんのインド人心、ですね(^^)

そういえ、オートのお兄ちゃんもボヤいてた。
最近はインド人(旅行者)の方が、外国人よりも気前がいいって。
「時代は変わったのよ、、、」と言っておいたが。。


大好きなインドから帰国して、
いつもなら「帰りた~い!寒~い!」となるところ、
非二元にシフトしたあとでは、何が起こるのか楽しみに帰国しました。

うん、
何にも起こらなかった、予想通り 笑
ぜんぜん帰りたい、という思いが湧いてこない(^^)
インドでも日本でも、
目の前のことが、ただ「あるがまま」あるだけです。で、なんか楽しい、、、愉快、、


ちょっと前までは、やっぱり因果関係はある気がするんだよな~、、、
と思ってたけど、理由といった類は、いつのまにか全部消えちゃった !
ビバ、バラナシ。
この因果も、あくまで見せかけの無意味で無価値なもの。

起こる物事に、なんの理由もなくなってしまった。
いやはや、こりゃー楽ったらない。


ひとつ困ったことは(実際のところは、ぜんぜん困ってないw)
何故こういうことをしたのか、と尋ねられた時。

どこをどー探しても、理由ってもんがどうしても存在しないから、
答えようがない^^;
起こったことが、起こっただけです、としか返答のしようがない。
(そう言うと怒られるのはわかるから、言わないけれど。脳みそは働いている)

菜穂さんの新しめの動画でも「罪悪感がない」と言ってるけど、
罪悪感も後悔も存在しえない。
だって、ここでは過去がないし、選択肢や自由意志がないんだもの^^;

子供の世界、子供の目線
これが良い例えな気がする。
すぐ忘れるし、何に対してもジャッジがない。


エネルギーが
ぜんぶ軽いな。。


皆すでに極楽浄土にいるとはこのことだったんですね~お釈迦様~
って感じ(^^)
(バラナシで、私はなにも吸ってません 笑)

とにかく、
解放が起きて、
人生から深刻なことが一掃されてしまいました。
毎日が同じに無意味で無価値で、、、、ただなぜか楽しい。

大切なものも大切な事も、大切な人も何もない、
すなわち、
すべてに違いを見ない(違いなんてありえない)とは、
なんて楽なんだろう。

解放が起きた友人とたまにミーティングをすることがあったけど、
すごく面白かった。
なんていうか、、、
本当にぜんぶがただ、軽かった。

特におもしろーいと思ったのは、
メッセンジャーでのChatで、
バラナシで喉や鼻をやられてるとき、体調が突然改善したこと!

解放同士の交わりは面白いことが起こるみたい。
「お互いジャッジがないから、すごく楽だね~
 なに言っても、ぜんぶ無意味って知ってるもんね~」
なんてよく言ってた。

確かBhagavanの「あるがままに」だったと思うけど、
ジーヴァンムクタは、ジーヴァンムクタを認識すると書いてあったけど、
こういう風に全てが軽いから、わかるのかな~


でも、だからって解放が起きた人にすごく会いたい、
とかは起こらないんですよね、やっぱり「あるがまま」で満足、
、、、違うな、

満足もなにも、それしかない、満足する人なんて誰もいない。
人なんていない、最初から誰もいなかった。
こんなだからか、
ノンデュアリティのスピーカーはバッシング多いのかな^^; 
のらくら~だもんなぁ~

「じゅんころ」さんは公の場から姿を消しちゃったし、
菜穂さん(日本語のスピーカー)がいるうちに、
話を聞いておけてラッキーだったな~と思います。
日本語ネィティブのスピーカーって少ない。

菜穂さんも解放友達とも同意見だけれど、
若いうちの方が、解放は起こりやすいと思います。
ごめんなさいね、ご年配の皆様。

実際のところは、誰も歳をとったりしないんだけれど、
(誰も生まれてないから歳をとる人なんて存在しない)
時間の中で生きる自我というのは、歳と共に、増大する傾向。

「私」は人生でこんなことを成し遂げた。
「私」の家族。
「私」の地位。
「私」の財産。

一般的な話で、幻のこれらを所有してると勘違いしてる「個人」は多いかと思います。
という意味で、若いうちの方が、自我の所有物が少なくて
解放は起こりやすいのかもしれません。

「若いうちに起こってよかったね、私も母が死ぬ前に起こって欲しかった…」
と言われたことがあるけど、
私もそのように感じています。
誰に起こったわけでもないんですが^^;

あとガン闘病中の友達も、ガン発見の前に
解放が起きて良かったそう。
病気の痛みが誰のものでもないって、楽だと思う。
不安も心配もなくなっちゃうし。


今のところ、
解放へのシフトの鍵は、
ノンデュアリティの話を聞くこと、しかわからない。


でも、
このパーソナリティは、インドの詩的な表現が大好きな
ロマンチストだから、
あえて言いますね(^^)

アルナーチャラは、私に素晴らしいギフトをくれました。
解放という恩寵。
アルナーチャラは、お願いすれば、何でも叶えてくれるシヴァ、
聖なるエネルギー。

おぉ、偉大なるアルナーチャラよ、、、、




ぜんぶ無意味な夢のお話でした。




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2018年3月13日火曜日

ベナレスの夢



こんにちは。
お元気にお過ごしでしょうか。

日本は春の訪れを感じる頃かしら。
良い季節に入りますね。


※このblogはすべて夢の話です。


はてさて、
デリーからの便に乗らないといけないってんで、
せっかくなので、久しぶりに北インドにいってみよーかどー!と、
初めて、バラナシへ。

バラナシと言えば、インド1、2位を争う悪名高き観光地。。
若いバックパッカーが沈没する聖地、、、
そんなところに「私」を失った状態で足を踏み入れる、
ノンデュアリティの世界では、どんなことが起こるのか、
興味津々でして(^^)

騙されたりしたら、ちょームカつく、
インド人に話し掛けられまくって、げっそりグッタリ、、、
昔、北インドを一人旅したとき、
そんなだったK氏の変化を見てみたいと、ワクワクでバラナシに足を踏み入れたのでした(^^)

インドは広い、
色んな旅の仕方があります。
南からそのまま電車でいく。(たしか36時間とか)
デリーまでフライトで、電車かバスに乗り換え。(12ー16時間)

貧乏性なもんで、
ラクナウ(パパジがサットサンしてたとこ。デリーとバラナシの中間に位置します)か
パトナまでフライトで、そこから夜行バスで向かうか悩みましたが、
今回は短い滞在なので、
チェンナイからバラナシまでフライトで。

とはいえ、
チェンナイまでバス(4ー5時間)、一泊して空港まで移動、
バラナシ空港からガンジス川周辺までタクシーで1時間、
など、
やはり移動が長いインド、
オート(いわゆるトゥクトゥクのこと)に乗るたびに、
値段交渉して~とか、時間がかかります^^;

前みたいに、値段交渉しなきゃ、、、はぁ、やだなあ、、みたいなナーバスな気持ちはなく、
やっぱり全部楽しくって仕方ないんだけれど♪
オートのお兄ちゃんと話が盛り上がったら、チップあげちゃう余裕っぷり。  
相変わらず、ぜんぶが平等に無意味だから。

それと、個人の消失により、
お金っていうのも、同じに無意味で無価値なものになるので、
(個人的な持ち物っていうのも消え失せます。だって個人がいないんだもん^^;
 聖者たちが「ある意味で、世界を捨てる覚悟が必要」っていうのはこういうことかも。
 ある意味で、ここで見える世界、非二元の現実では、世界は消えてると言える。)

ぼったくられたりしても、何ら問題ではなくなります。
そこで怒りが起こったとしても、ただ怒り、という感情が起こっただけ。
誰に対して起こったわけではない。

個人的なことが一つもない。
「自我」はなんでも個人的に捕らえるから、色んなことが問題になりますが。

だから、ぽいっとお金を多めに渡したりするこが起こってます。
騙される人も、騙す人もいない、ここで起こることは、そういう次元の話。
次元が高いとか、低いとか、高いから良い、低いから悪い、とかジャッジのない次元。


はてさて、
空港から降り立って、
なんと、バラナシ滞在していた友達が空港まで迎えに来てくれる、という
ぜんぜん冒険感のない感じで、街へ足を踏み入れたK氏。

空が、灰色^^;
い、息ができない^^;

地元の人がマスクをしている、
それ即ち、
かなりヤバい大気汚染を意味します。
K氏も最初の2日、喉が痛くなり鼻がつまって目が痒く、
動けなくなりました。(持っててよかったホメオパシー!!)

ちなみに、
空港からオートで行きました。500rp これ相場だそうです。(たまには旅じょーほー)

帰りは、駐車場代として+100rpを請求され、
「ふざんけんなよ、ありえねーよ、こちとらインドの物価知ってんだよ、
ちょっとそこのバイクのお兄ちゃん、駐車料金おしえてくれる?」
バイクのお兄ちゃんをつかまえ渋り、オートのおじさんを黙らせたK氏。
ま、チップあげよっかな、と思ってたので、50rp渡して決着。

なにか文句を言うことにも、躊躇いがなくなります(^^) 
誰もいないから、行動だけが思考なしに無意味に起こる。躊躇う人がいない。
ぜんぶ面白い。

でも思考が起こることもある、何でも起こりえる、
ただ、それをやってる人が誰もいない、というとても単純な話。



ガンジス川はやはり美しかった、、、!!!

友達に連れてってもらったり、瞑想仲間からオススメされたりして、
たった1週間の滞在で、あちこちお寺やアシュラム、エネルギーポイントを訪ねて座りました(^^)

目的のない趣味の瞑想は楽しい♪
(どこか行く場所も、目指すところも何にもないから)
ただ静けさを聞いて座ってるだけなんですけど、
深く深く潜ってる気分(^^)

頭の中の思考すら気にならなくなったから
(思考を観察してる人がいないし、気にする人もいない)、
携帯電話の音も、話し声も、何にも気にならないから、
瞑想は、本当に素晴らしくなりました(^o^)
バラナシはさすが聖地、瞑想、すごく良い感じです。

ご飯もお茶もケーキもマズイから、
ガート散歩して、お寺にいって、瞑想するしか、することない、バラナシ 笑
楽しい!

日本人の若いバックパッカーもたくさん見たけど、
一体なにやってんだろー

あ、
楽器習ってる人は、長期滞在してるそう。
わたしのお隣りさんもタブラ(インドの太鼓)やってて、毎日練習してた。
彼も、毎年長く来てるみたいだけど、
マシになったが飯がマズイって言ってたな~^^;
街の臭さでも食欲が失せるところです。

前だったら、
ご飯もまずくて高い、宿も汚くて高い、街が汚い、花なんて咲いてない、
なんてバラナシに、
ぜんぶ揃ってる南インドから行ったならば、

「南インドに帰りたい~なんで来ちゃったんだろ、、」とか「早く日本に帰りたい、、」
など思っただろうけど、
過去も未来も存在しない今、そういう思考は一切浮かんでこない、
ただ目の前のマズイ飯が、いんちき臭いインド人が、大気汚染の街が、
ただ無意味で美しい奇跡で、面白い(^^)


よくスピリチュアルだったり、サイキックな人にありがちな発言で、
「個人」にとって良いことが起こった時にだけ、
「 必要なものが全部勝手にやってきた 」 というのを聞くけど、
(しかも何か自慢気な気がする、これこそ自我の大好物なエサなんですが。)

ここで起こってることは、
見せかけに起こることは変わらない、「個人」が悪いと捉えることが起こっても、
ここでは、それを悪いと捉える「人」がいないだけです。

で、
ここでは「身体」も無意味に起こってることの一つに過ぎません。
だから、見かけ上、K氏がなにか考えて決断してるように見えることも、
「ぜんぶ勝手にやってきた」ことのひとつなんです。
誰もやってません。
ただ身体が自動的に、瞬間瞬間、起こって、その行動がその瞬間起こった、
そして消えた、というだけ。

「自分」を肉体と同一視する「個人」は、
自動的に起こってることは、
身体(自分)がやってること以外(他者)を意味していると勘違いしてしまうけど、
あくまで肉体もまた、起きてることのひとつです。

ここまで(例えば肉体の動き、思考や決断、選択)は自分でコントロールできる、
自分(乗り物と信じてる肉体)の行動以外は、大いなる力がやってる、
というのは、
とても個人的な考え方、エネルギーです。


前に、パスポートもクレジットカードも現金も盗まれた友達のことを書いたけど、
まさにそういうこと。
見せかけ上は、彼に、不運が起こったように見えます。
でも、実際はそこに彼はいない、「個人的」に出来事を捉える人がいないから、
ジャッジがない。(悪いことが起こった、との判断がない)

彼が怒ったように見えても、実際は、誰も怒ってない、
怒りがただ起こって、そしてそれが消えていっただけ。
パスポートの再発行を求めて、あちこち奔走していても、
それも自動的に起こってるだけ、彼はなにもやってない。

この世界が「幻」や「夢」のようなもの、と言われるのはそういうこと。
ぜんぶ消えていく、夜に見る夢と同じです。

眠っている時に見る夢が現実ではない、無意味なものと皆知っている、
「個人」のエネルギーが消えたここでは、
すべてが、眠ってる時に見る夢と同じでしかないです。

そういう意味で、シフトが起こると、
「世界が消える」とか言われてるのかもしれません(^^)
でも、このシフトや解放と呼ばれるこれは、
個人的な「私」に起こったわけではないです。
これがすごくクリアになる。


Arunachalaで、今まで見ていた夢から覚めて、
別の夢に潜っていき始めた。 でも何かがクリアな夢。

バラナシで、もっと深く深く夢の中に潜っていった気分。。。


ここは今日も、とても静かです。
喜びも怒りも悲しみも葛藤も、個人という分離したエネルギーも、
ぜんぶ美しく無意味。 

そして完璧。



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でも正直なところ、ノンデュアリティの話を書くのはやめるかも?
だって皆、
美しいヨガの話、皆でギャザリングしてハグして涙、、、とか、
個人的なストーリーが好きでしょ。

ぜんぶが同じに無意味っていうのは、、、
例えば悪口や愚痴も、「ありがとう」っていう言葉も全部同じ。同じに無意味。
そこで識別(ジャッジ)や分析が起きない、ということ。
ここでは、因果関係も引き寄せも存在しないんで、
文句言おうが、「ありがとう」と言おうが一緒でしかない^^;

美しい個人的なストーリーが大好きな「エゴ」は、これを理解しないと思う。
こういう発言はムカついてしょうがないんじゃないかな^^; 
とても自然なこと。 完璧。
K氏も、こんな話、聞きたくなかった。

、、、でも、何者にも違いを見ない、というのは、こういうことじゃないかな。
Bhagavan!!って瞑想してた時より、Bhagavanの言葉がものすごくクリアに理解できる。


究極の「救い」、人生で何か探し求めること(探求)の終わりっていうのは、
「私」の死でしかありえない。
K氏が死んでわかりました。

もはや、わかった誰かは存在していないのだけれど。。



2018年2月24日土曜日

満月つれづれ



こんにちは。
ちょいとご無沙汰していました。
お元気にお過ごしでしょうか(^^)

こちとら2月13日のシヴァラトリから、
がっつり高熱を出して、5日ほど食事もできないほど、
ベッドに終日いる日々を過ごしておりました。

またやったー
ばばーになって痩せるもんじゃないって思ってたのに、、、
インドはしょうがないっす^^;

そして、やはりインド旅企画をしていた日程で寝込む件。
なんかもうそういうことなんだな。

しかしながら、
この聖地デトックス(あくまで見せかけの肉体にとって)のおかげで、
パンチャカルマだったり、
なにか特別なトリートメントを必要だと感じたことがない、アルナチャラ。。

ちょっと食べすぎて、太ってたり、湿疹が腹の周りに出てたんですよねー
そしたら、
こんなことが起きて肉体はリセットされる、、、
あと痛めていた足首も、ちと痛みへってる。

今回も、ホメオパシーのドクター魔女に
お世話になりました。
なんであんなに効くんだろうか、何の味もしないあの水が、、^^;
ホメオで治ると、何かがとても自然、、、

今回は、どんどん痩せてく私を心配した友達に薬も飲まされたけど、
ぎゅうっとおさえつけられて、出所が見つからなくて、
こじらせる予感があったので、ホメオへ切替え。

最近は断然アーユルヴェーダよりホメオ。
なんといっても即効だし、ハーブと違って飲みやすいし、シンプル!
アーユルの風邪薬も飲んだけど、ほんっとまっずい!!!

ただ、
アロマオイルとかと併用しない方がいいらしいってんで、
たまに気をつかう。そしてたまに忘れる大雑把さ。その程度で飲む。


「私」が不在だと、身体のことにもそんなに神経質になれないから、
平気で3日くらいは下痢してたりして。
色々、気にならないと楽や~(^O^)

シフトが起きた人が共通して言うことは、
「神経症」的なことが消えること。

まあ、、、気にする「人」が不在なわけだから、
色々と気にならなくなるのは当然ちゃ当然ですね^^;


※ このブログはすべてフィクションです。
 インドにいるのも、ぜーんぶ幻想。



はてさて、
インドは相変わらずめんどくさい、小便くさい。

うまいこと言ったな~と街中のションベン通りでニヤリ。。

「私」が死んでしまうと、期待というものもどこかへ行くようで、
何かを本気で、求めるということがない。
求めて、
それが手に入れられないと葛藤=個人的苦しみになる。

期待というものは、存在しない将来にしか存在しない。
非二元の空っぽの世界だけが起こっていると、将来も過去も存在しない。
ヨガの人は、Now Hereとかも言うけど、
「今」とか「ここ」とかも実はない。
過去と未来がないと、今も存在しえませんね。 
「そこ」がないから「ここ」も存在しません。

そういう次元の話ではない。

で、
別にその次元が、高次とか低次、ということもない。
高いも低いも、なんにもない。
シンプルすぎるほどに、単純な話(^^)
「ノンデュアリティ」って英語になると、受け付けないって人もいるけど、
(私もそうだった。)
とてもつなくシンプルな話です。


でも起きてることは、
これまでと何も変わらない、
K氏という人の人生が、見かけ上、起こっては溶け消えてゆく、その連続。

見かけ上、変わったことと言えば、
蚊に刺されても、3ヶ所までなら気にならない、
4ヶ所過ぎると、かいー!!みたいです。

たまに、サイキックな人とか、サイキックなことが起こってしまうと、
なにかドラマチックなことが起きることを想像することがあるようだけれど、
(すべてがうまくいく、とか、欲しいものがぜんぶ勝手に向こうからやってくる、とか。)
これまたそういう次元の話ではなく。

見た目に起こることは何ら変わらず、
例えば、
お金に困ってるように見えるかもしれない、
ただそこに困ってる誰かは存在してない、見かけ上起こったことに対して、
深刻さがない、そこに誰もいないから、ただそれだけ。

見せかけ上起こったことは、シンプルな、エネルギーのシフト。
なにもドラマチックで感動の出来事なんてない。

「必要なものがいつも手に入るようになりました!感動の世界です!」
なんてこたないよ、
それは個人のエゴによる幻想の出来事、理由付け。



そういえば、
ポンデイチェリへも日帰りで遊びにいってきました。

誰もいなかった~
(これは非二元の話でなく、ツーリストがいなかったという意味で。
 わかりにくいなあ 笑)

日本人の友達、共通して言うことは、
ポンデイチェリは、飯がまずい! 
インド料理すらまずくて、(前たまに行ってたとこ)
すすめてくる店員に、
「私の身体見てよ、おじさん! 痩せてるでしょ? 食えないんだよ!(まずいんだよ!)」と言った。
Take careっておじさんに言われた 笑


このblogを読んでる友達と非二元の話になって思ったけど、
これって非常に話しにくいし、本当に意味がない^^;
ものすごく楽だから、アドバイスしたいのは山々だけれど、
アドバイスといったものがない。
そして、
楽になって欲しい誰か、というのも、ここではもう存在してないから、
「こんなに楽なんですよ~」など、伝えたいこと、といったこともない。


頭は働いているわけだから、コメントもしづらいことだろうことも予想がつく。
(ここには誰もいないし、ぜんぶ幻想から大丈夫!なんて言えない)


大和田菜穂さんが、
解放が起こった(見せかけの)人たちは、
静かに生きてる人た多いって言ってたけど、そうだろうな~と納得しました。
私の知ってる人たちもそう。
なんにも特別じゃないしね、もともとの自然を思い出しただけだし、
と言ってる。


私も、行ったり来たりする感覚とか、
世界が光にしか見えないような高揚してエキサイティングした感じは、
ほとんど起きなくなって、最近は淡々と静けさ、「これ」しかないので、
そろそろ、
非二元についてたくさん書くのはやめていくんだろうな、という感じです。
これも誰かが決めるんでなく、自動的に起こることが起きるだけなんですけどねー

これ読んだところで、解放とは無関係ですんで。
言葉で言えることは解放そのものじゃありません。


ちなみに、
blogで読むより、YouTubeで非二元の話を聞いた方が、私は効果ありました。
「私」が消えるの早かった。
これが唯一できるアドバイス、かも?

菜穂さんのblogや本も読んだけど、頭での理解は増えるが、
「自我」のエネルギーが消えていく感じがあるのは、動画だけでしたね。
周りで解放が起きた友達も、同じこと言ってた。

菜穂さんのサットサンに参加してる人たちは、
どんどん解放が起きてるそう。
瞑想とかスピリチュアルとか、なーんも知らない人たち、どんどん解放が起きてるらしい。

彼女のサットサン、いまめちゃくちゃ高い^^; 
2万円とかする。行ける人は行ってもいーと思う。
そのうちYoutubeも有料とかになっちゃうかもだから、
解放に興味ある人は、いまのうちに見ておいた方がいいのでは。

でも見ないでしょ、みんな^^;
個人のエネルギーっていうのは、美しいこと、楽しいことが大好きだから。
それもまた完璧だし、、、
(人間の苦しみの根本の原因は、個人という分離した感覚です。これは絶対)

追記。
前に見て面白かった、科学とノンデュアリティの動画、もう無料で見れないみたい、、、
面白かったから、有料で見てもいいと思うけど。
頭で理解したい人には、入口として納得できる。

阿部敏郎さんのblogは説明が上手。
http://abetoshiro.ti-da.net/e7652816.html



ニサルガダッタかパパジが、
「解放以外を求めないこと、他の欲望を捨てて、解放だけを求めていたら、恩寵がやって来る」
みたいなことを言っていた。(言葉は正しくないかも)

私はこれは、解放のひとつの法則なんじゃないかなーと思ってる。
ただ「これ」以外に、絶対の因果関係っていうのは存在しないから、
何にも求めてなくて、ぽっと解放が起きてる人もいるんですよね^^;
ただ、起きやすい、のではないか、とにらむ。

私の知ってる解放が起きた人たちは、
真剣に「これ」(悟り)だけを求めて、瞑想してる人たちでした。
他の欲望は、捨てて構わないって人ばかり。
ま、そういう聖地に行ってるからどうしてもそうなっちゃうのかな。。。

私自身も、去年くらいには「なにも要らない、いっそ殺してください」って思って瞑想してたしー^^;
特に、このパパジがニサルガダッタの言葉を読んでからは、
本気で、個人の幸せ要りません!Bhagavan!!って思ってたな。

事実、これは正しかった。
「私」が欲しかったのは、「私の死」をもってしか得られないものだった。
それを得たときには、欲した人も得た人もすっかり消えてしまっていたけれど(^^)



そうえいば、
解放の始まりは、「あること」をやめた頃から。
さてここでクエスチョンです 笑
その「あること」とは次のどれでしょーか?

1、ヨガ
2、瞑想
3、チョコレート
4、テレビ
5、Wifiの使用


この中に果たして正解はあるのか! (えぇ?!)
勝手に想像して試してください。

ここで起きてるパーソナリティは、いたずら好きで、ちょっと意地悪みたい(^.^)
個性は起こる、喜怒哀楽という感情も起こる、痛み痒いくすぐったいという感覚も起こる、

ただ誰もいない。
個人的に起こることはなにもない。

主体の消失、同時に客体の消失。
空である「それ」だけがリアル。


今日も、ここは変わらずとても静かです。。。



2018年2月12日月曜日

ドクター魔女のはなし

今シーズン借りてるお部屋のお庭にて。
大家さんが切りすぎたジャスミンやハイビスカスが咲き戻ってきて嬉しい。
(すでに金払ったから、切れるだけ切らせるとか
情緒もくそもないことを言うておったぞ。
もーインド人、、、)
毎朝、庭から花を積んで飾る暮らしもインドの好きなところ。
家の目の前、ゴミ捨て場だが気にならないよ、もはや、、、


こんにちは。
お元気にお過ごしでしょうか。
こちとらすこぶる元気です。毎日たのしい夢です。

※ このブログはすべて夢の話です。


あ、今朝、チャッパル(サンダル)泥棒にあいました、アシュラムで(-.-;)
犯人、見つけ次第、飛び蹴り。

インドで履き物を盗まれる、
それ則ち、
ゴミやウンコだらけのきたない道を裸足で帰らないといけないことを意味します。

さいわい、くまりちゃんはオンボロレンタル自転車を手に入れたところだったので、
自転車で帰れましたが。

バイク、車、バス、牛、牛車、自転車(すべての乗り物の逆走含む)など
行き交うインドの喧騒を
自転車で走れるようになり、インドサバイバルレベル上がったように思います。

右折の時は、渡る!と心決めたら、
それ則ち、
後ろを振り返らないことを意味します。
(意味しませんが、振り返ったら躊躇して一生渡れないので、振り返らない方がいいね)

命をかけての右折、横断。
これにもすっかり慣れましたが、
如何せん、
自転車走行中の口が悪くなっており、面白いですよ、このひと^^;

最初のうちは「まってまってー!後ろにいまーす!」
だが、
日本語ばれないのいいことに、堪忍袋の緒が切れる直前になるや、
「 まちやがれ、じじー 」  「 はよいけや、へたくそ! 」
どうにもこうにも、茶目っ気に欠ける言葉づかいになってしまいます。 

てへぺろ


先週くらいから、
歯が痛くなりはじめまして。
差し歯にしてる前歯の根っこなので、根尖病巣が悪くなって、
鼻の方から痛みがきてる感じがありました。

差し歯をとって、鼻のあたりまでの神経を消毒したりする、、、
こんな複雑そうなことでインドの歯医者に行きたくないなー、

おまけに前歯、おまけに歯列矯正で根っこが弱いため揺れておる、
有無を言わせず抜歯などされようものなら、その後が困る、
いくら夢でも前歯なしはやーよ、
まいったなー、

日本に早めに帰るかなー、
チェンナイの日本人ご用達の歯医者さんとか調べようかなー、

ある意味の幸いは、奥歯じゃないから食べる時は、さほど痛くないが。
などなど考えておりました。


けっこう本気で痛くて、夜も眠れなかったんですが、
「私」が不在だと面白いもので、
やっぱりどうしても深刻になれないんですよね^^;
痛みは起きてるが、現実味が湧かない。

考えないといけないのに、忘れちゃうし、
インドで歯医者もおもしろいかもー 笑   とか。。

こういう「個人」にとっての問題が起こってきて思うのは、
あらためて「私」の不在にしか、救いはないなーと思います。


ノンデュアリティの話しちゃったから、ついでに。
大和田菜穂さん曰く、

「 ヨガのプラクティスも瞑想も、ナンパするのも全部同じ。全部意味はない。 」

とのこと 笑!
彼女さいこー

いやー 彼女の、ずばずば遠慮のない物言いだからこそ、
「私」の死は早かったように思いますので、
本気で「私」に世界から退場して欲しい「人」は、菜穂さんはオススメ(^^)
本も「すでに愛の中にある」なんてきゃぴっとタイトルで、
装丁もハートデザイン、

にも関わらず、
鋭いナイフのように「個人」をずばずば切り殺してくれます。
ラマナマハルシの本より、よっぽど厳しいっす、、、

そういえば、
ひとすじの光もない絶望の中にいるときに、
一瞥体験をする人が多いんだって聞きました。
確かに、私も絶望してた^^; ひとすじの光も救いもなかったな 笑


そもそも、
救われてない人のヨガや瞑想や、その他学びや癒しの集まりに行ったところで、
究極の救いがそこにあるだろうか^^;

頭で考えるだけでも理屈はわかるけど、「個人」というのは、
関係性に依存することでしか生き残れないから、
どうしても、「先生」や「教え」を求めてしまうのかな。。

特に、人気の先生というあらわれには、
しがらみが多く、解体が難しいんじゃなかろうか、、
人気がある、ということは、「個人」という牢獄を居心地良いものにし、
それは「エゴ」を増大させるエサとなるというパラドックス。


そもそも、
「個人」というものが生まれた時点で、
謙虚さというものは存在し得ない、ように思う。
「自らの自由意思で選択をしている」ということは、とてつもない奢りだ。
見せかけの「個人」と存在し得ない「自由意思」は常にセットなんじゃないかな。


先生や教えが現れた時点で、「私」と「他者」が始まり、
この二元性により、個人の苦しみも現れ始めるのですが、、、
(あくまで全部幻想だけど、個人というエネルギーはそれをリアルと見る)

それとラマナマハルシやニサルガダッタの本でもよく出る質問で、
「 幻想の中の幻想のエゴよる幻想の努力で、幻想を消し去ることができるだろうか 」
「 幻想のマインドの働きかけにより幻想を消し去ることができるだろうか 」


同じく、そのように思います^^;
幻想でしかないヨガなり瞑想なりの「プラクティス」が、
唯一「実在」の「其れ」に働きかけられるのかなぁって。

しかし、
こんな質問してる人たちって頭いーよねー
あたしゃ前は質問の意味すら、わからんかったぞー


ちょっとこちらでは、そこらへんわかりかねますが、
ニルヴァーナそのもののバガヴァンが言う、
「アートマヴィチャーラ(真我探究)」をやると何かが変わっていくのかもしれませんね。
因果関係ないこと前提だが、
やっぱり救われてるところの助言を聞くのが、てっとり早いんでないかと。。

バガヴァン曰く、個人の性質によって色んな道があるが、
これがダイレクトな方法とおっしゃってますよん。


さておき。
なかば、ダメ元でホメオパシーのドクターの元へかけこんだK氏。
毎年お世話になってる魔女。
本気で治したい、よりも、
今年もちょっとこのドクター魔女に会いたかったりして。 

だって歯の病巣ですよ^^;
いくらホメオパシーでもね、、、と思うじゃないですか。

ネットでホメオパシーを使ってる歯医者さんのブログも参考にして、
ひととおり持ってるレメディ試したけど、全然やったし、
少し痛みが和らいで、だましだまし帰国までもったら幸い、
もたなければ、チェンナイの歯医者だなーと思ってました。


が、
効きまして (〇o〇;)

しかも、
まさかの即効 ^^;


いつも通り、こちらの下手な英語を「ふむ」と聞く、ドクター魔女。
少し白髪が増えて、貫禄がまた増したご様子。

私の去年のカルテ(メモ)にも目を通す、
時折、ニヤリと笑う(これが面白い)、
言葉少なに質問をすると、年々大きくなってゆく身体をよっこらしょっと立ち上がり、
壁一面のホメオパシーレメディの中からかちゃかちゃと瓶を取りだし、
レメディを作る。


効くわけないやろー と疑いながらも毎年、困った時のかけこみ寺、
疑いつつも、何故か効く、、、
疑いながら飲んでるK氏に効いてるから、プラシーボではない気が、、、

ただいまレメディをとって3日目ですが、
完全になんともなくなってしまいました^^;

「歯医者に行かないといけないのはわかってるけど、もし改善できるなら、、、」
と言うと自信満々で、

「いや、歯医者いく必要ないと思う」(ニヤリ)
と言った彼女。。。
やはり魔女なのだらうか。


なんとなくですが、
「私」不在の方が、自我が邪魔しなくてホメオも効くのかなーなんて。
だって何でも起こりうるんですもん(^^)
魔法だって、魔女だって、宇宙人だって陰謀だって。


でも実は、、、
なにも起こってない、、、!

起こった瞬間に、消えてゆく、
夢のような世界が、ほろほろと、完璧に、ここでは光り続けています(^^)



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2018年2月9日金曜日

悟ってなかった!らしい件

最近は家で朝ごはん。
オーツポリッジに友達が教えてくれたトッピングを真似っこして。
牛から直送のミルクに今年もはまる! おいしい!!


こんにちは。
ご機嫌うるわしゅう、お元気にお過ごしでしょうか。

ちょっと、大変、
どうやら悟ってなかったみたいです 笑


※このブログはすべてフィクションです。


シフトが起きたらしいってんで、オススメされて見た動画、
「大和田菜穂」さん、「じゅんころ」さん。

前者、菜穂さんの動画を見てから、
なにかがすごいスピードで変わったんですが、
K氏に残念なお知らせが舞い込んできまして、
阿部敏郎さんとの対談の動画の中で、菜穂さんいわく、

「 本当に解放されたら、自らすすんで、それについて公で喋ったりしない
  静かに暮らしてる人が多い 」 

とのこと。

あ、こちらブログに書いてるから、
どうも悟ってないらしいです^^; なーんだ。
あっちゃー はずかし~ (//△//)


ところで、
一番最初に、「大和田菜穂」サンや「じゅんころ」サンを紹介されたのは、
確か2年前に、アルナチャラで出会った日本人の男性から。
「ノンデュアリティ」の話おもしろいよーってリンクを送ってもらいました。

ちら見して全然興味なかったです^^;

お二人とも、ばっちりメイク、という時点で興味をもてず。
(失礼、今ここで出てることに他意はないです。他はもはや存在してない!)

それから、確か去年かな、、
またアルナチャラ滞在中に友達から「大和田菜穂」サンを紹介されて、
本も渡されたんだったかなー 覚えてないなー

とにかく嫌悪感いっぱいになりました。(去年は、絶賛修業中だったもんでw)

「こんなちゃらっとした小娘にバガヴァンの教えがわかってたまるか。
 高級ホテルとかでプライベートサットサンとか、単なるビジネスの人でしょーよ。
 ふんどし一枚に水差しと杖しか持たず、
 皆にご飯を作ってあげてたバガヴァンの謙虚さを見てごらんなさいよ!」

なーんて思って、
(すいません、年上なのに小娘とか。)
その友達がまた菜穂さんの喋り方とそっくりになっており、

「バガヴァンなんていないよ! バガヴァン一体どこにいるの?」 
ってすごい剣幕が言うもんで、 
「うわーこれが洗脳ってやつかー こわいー こういう人と関わりたくなーい」

なーんて悪意向きだしになって終わりました。
(ファンの皆さん、すいませんすいません、今となっては悪意ないし、
 不思議なほど、
 彼女がやってることとか見た目とか気にならないです。
 そもそも彼女を「人」としての存在と捉えることができないので、
 個人的感情が何ひとつ湧いてきません^^;)


K氏は疑い深いもので、
今回も、動画を見る前に、紹介してくれた友人に確認しました、

「 洗脳っぽくなりませんかね? 
  言葉だけで理解して、わかったような気になりませんか? 」

その友達が大丈夫だと思う、と言ってくれたので、
インドくんだりにいるのに、YouTubeで一人サットサンの始まり 笑

ネットの使い放題の契約して、
アルナチャラに登ってる時も、家で休んでるときも、
カフェでお茶してる時も、イヤホンつけて、
ずーっと「ノンデュアリティ」のメッセージを聞き続けていました。


しかし、
3回が3回とも、「ノンデュアリティ」の話を紹介されたのが、
アルナチャラだなーと、そういえば。

「ノンデュアリティ」の現実によると、
原因と結果はないから、たまたま起こっただけですが、
こういう偶然、まさに自我の大好物だと思いません? ^^;

「 やっぱり私は、アルナチャラの恩寵で必要なことを受け取ってるんだわ! 」
みたいな、
「オレって特別」物語にはうってつけ。

いや、ないから、とK氏につっこみたい 笑
なんも特別じゃないです!
って都度、自我につっこんであげたいですね。

インドに呼ばれた  → 呼ばれません!呼ばれる人も呼ぶ人も誰もいません!
アルナチャラが引き止めた → 引き止められる人も引き止める何かもなかった件!

どこも特別な場所はないし、エネルギーの強い弱いなんてありません^^;
パワースポットなんて最初から存在しなかった。
あくまで、
これらは幻である「個我」にとって意味を成したことで、
「個我」自体が存在しないので、聖地なぞ存在しませんね~


ただ、シフトが起こることを「恩寵」と呼んでるのかなーと思いました。
バガヴァンも言ってるんですよね、
個人の努力ではどうにもならない、最後には恩寵がなければって。
ニサルガダッタも言ってましたっけね。


ひとりオンラインサットサンの結果、
気付かないほど静かに変化してたことだったので、
なるほど、と思う半面、
エゴ(我)が全面に出てきて、疑問がいっぱい湧いてきて、
苦しい時間、絶望することもありました。
それまでは変化に気付いてなかったから、疑問が湧いてくることはなかった。

それでも聞きつづけて、菜穂さんの本も借りて読んだり、
同じようにシフトが起こってる人を紹介してもらって、
質問させてもらったりして、
そうこう言ってるうちに、
なんだか疑問も減ってきて、

ふとした瞬間に、
「あ、なーんだ、誰もいない。私がいないのと同じに、だーれもいなかったんだ。」
みたいなことが何度か起こっては、
「世界ってこんなシンプルだったんだなぁ、、、 静けさしかない、、、」
そういうふうになじんでゆく、、、というか、


このところは、
「もうこの状態が当たり前過ぎて、話題にもしなくなった」
と友達とも言ってたけど、そんな感じです。

むしろ、色んなことが気になってた時の方が嘘みたい。
色んなことがどうでもいいっていうか^^;

ただ目の前で、ことが起こってるだけです。
誰もいません。
目の前にいる人の肉体も起こってるだけ、という感じ。
で、
べつにそれに気付いてる誰かもいないし、気づきもない。

ヨガや瞑想など、スピリチュアルというより、
超現実って感じでしょうか、「非二元」の現実は^^;

でも全部、毎日、毎瞬間が同じに輝いてます(^^)


めんどくさくなるから気をつけないといけないのは、、、
自転車や家の鍵をかけ忘れてたり、
財布を外に置きっぱなしにしてたり、忘れ物が多すぎる。。。

物忘れがひどいから、
単に脳の病気なのかもしれませんねー^^;
どっか機能しなくなってるだけなのかな。 
悟ってなかったらしいってんで 笑


そういえば、
同じようにシフトが起きたらしい友人が、インドから出国する前日に、
パスポート、現金(仕事で来てるから大金だったらしい)、カード、
まるっと盗難にあったんですが、
大笑いしてました 笑

いや、めんどくさいはめんどくさかったと思うんですけど、
私も一緒に大笑い(^O^)

そして彼は、どんどん良い顔になっていました。
不治の病とも言える、医者もさじを投げる病を患ってた方ですが、
(養うご家族もいらっしゃったので、悩んでらっしゃったと推測されます)
体もどんどん元気に、お医者さんも不思議がるけど、
病も回復に向かってるそうです。

「もう死ぬのも怖くない。 だって『これ』しかない。『これ』しかなかった。」

インドを発つ前、彼が言っていた言葉です。
頭と別のところで、意味がわかれば、
「あなた」ももう死んでいるのかもしれないですねー
そもそも、誰も生まれてなどいないんでした(^^)


※ あ、私は脳の病気かと思われます^^; 
  はよ帰国して検査せなー 




このブログは全てフィクションです。




つづく、、、
かもしれない。。。

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2018年2月3日土曜日

悟ってしまったらしい件③



こんにちは。
お元気にお過ごしでしょうか。
お寒うございましょなあ~、、、

雪がしんしんと降るのを、あったかい部屋の中から、
ぼおっと眺めるのは好きだなぁ~
ミルクコーヒーとか飲みながら、コタツがあったらサイコー(^^)
(最近はチャイにはまってます、、、
 シナモンいれて、ココナッツシュガーで甘いやつ!
 あのね、
 ジャガリって椰子糖とキビ糖があります、前者のがベターって西洋人が言ってるが、
 たぶんヨガアシュラムで出るやつは、キビ糖かと。椰子糖は高いとよー)

子供の時に、そういう瞬間があった気がする。。
母が雪平鍋で甘いコーヒー牛乳を作ってくれたような。
庭の南天の赤い実に白い雪が積もってゆく様が、
はっとするほど鮮やかで、
あの瞬間に時間は存在しなかった、つまり自我は存在しなかった気がする。。

って結局のところ、過去は夢のようなもので、実在ではないんですけどねー 笑

※このブログは全てフィクションです。


日本だったら幼児虐待の疑いで通報するレベルで、
隣のインド人ファミリーの家からは、
アンマ(母)の怒鳴り声と、子供達の号泣する声が響いております、、、

毎朝そんなによく怒ることがあるなぁ~って感心するのと、
こんな女捨てた金切り声で怒鳴っても、
旦那に捨てられないインドすごいなーいいなー 日本だったら離婚の危機やろばーい、と思ふ。

で、
お父さんが多分アホで、
声と喋り方からそれが滲み出てて、丸聞こえな父親の声にすごい腹立つ。

このアホ父、塀を乗り越えてうちの庭に不法侵入し、
庭の花をぜんぶ持っていきやがる。 この時点で平手打ちしたい。
↑このように、怒りは湧いてくるようです。

昨日も、
うちの門の前で鍵を探している時に、(こういうの不意打ちで腹立つ)
貧乏そーなじじーが、お金をせびってきて、NOって言ってもしつこいから、
「タミル語わからんっち言いよろーが! あっち行け!」
なかなか使わん激しい田川弁で怒ったら、やっと立ち去ってくれた 笑
↑ これは怒りっていうよりは、半分面白がってますが^^;

怒ってもそれで終わり。
あいつ花もとりやがって、アホな喋り方やし、、悶々、、、
とか、
次に彼と会った時に時間をかけてアホな父に考えを巡らすことはない。
そういえば、花泥棒しておったな、という事象だけが、 
脳の記憶として湧くだけで、そこに感情がくっついてないって感じ?

まいっにちうるさいですが~^^;
たまに夜中3時に始まりますから、家族劇場、、、


はてさて、ノンデュアリティ。
K氏の場合、先に言葉から入ったというより、
自分に起きていることを友達に指摘され、「非二元」につて紹介され、
動画やら本やらを読みはじめたパターン。

なので、
そういうことが起こってたのか~
と言葉にしてもらって、わかりやすーい!
でも究極のとこは言葉にならないっていうのもすごくなっとく。
という風。

で、もともと疑い深い性格なんでしょうね。
いや、前世の記憶もないくせいに輪廻転生を信じてるあたり、
洗脳されやすいのかしら^^;

というか、

「輪廻転生=因果応報が存在しないと、人間の平等性はどうなる?!
 人生が、神様が、そんな不公平なわけがない。でないと生きる意味がなくなる。」

という、完全なる自我の生き延びたいがゆえの勝手な持論が繰り広げられてました。
だってノンデュアリティの現実では、生きる意味、人生に意味、ないんです^^;
シフトが起きたら、生きる意味ないなぁ~って。
人生を生きてる「人」が不在になっちゃったから。

だもんで、
大きな家を建てて家族と幸せだぞ! とか、
仕事で昇進して社会にも貢献してるぞオレ! とか、
ヨガを伝えて人々の苦しみを和らげるてるわ! とか、
良い行いをして人として成長する、これが成長だ! とか、

これらの個人の幸せで満足な人には、「非二元」の現実は一切関係ない話。
意味わかんないと思う。
それでいいと思う。
「非二元」の現実に、個人の幸せは存在しません。個人がいないから。




「そこに私の求めてる幸せはない=安住の地はどこにもないんだ、
輪廻があるから死んだって手に入らない、
何したってぜーんぶ同じ。」

瞑想とかヨガとかで、一時的な恍惚感、解放感みたいのはあったものの、
結局、
閉じ込められてる感、不自由な感じ、居心地の悪いところに
戻ってきてました。

いつからか、
「私」以外の何かが、そこに薄々気づき始めていた、というか、、、
気づく誰かも何かも存在しないから、言葉の表現は的確ではないけど、
そういうようなことが起こっていましたねー
「私」は、存在意義がないと生き残れないから、
「K氏はラマナマハルシの真我探究の人だ!」
って主張してましたが^^;


あ、そうそう疑い深い性格の話、
このシフト、友人に指摘されてから、
いや有り得んやろって疑ってるとこがあり、
そのたびに、

「あんた日本では、いい歳してって言われる歳で、結婚もしてない子供もいない、
 年金も払ってなけりゃ貯金もない、親の財産もない。
 お先真っ暗だよ? ほらちょっと焦りなさいって。
 帰国したら、あくせく働かんとヤバいんじゃない?インド来てる場合じゃなくね? 
 でもその歳では~ってボーナスもらえるような仕事にはありつけないよ、
 スキルもないやろ。 
 足腰ぼろぼろ婆さんになっても、泣きながら働きつづける様を想像してご覧なさい!」

と、うちの母がたたみかけるのと同じように、問うようにしてまして。
(正確には、この自問自答とおぼしきものが、その瞬間に湧いてるだけなんですが)

しかしながら、
どーーーーーーーーーーしても!! 
昔みたいに不安な気持ちになれないんです^^;

不安になれよ!焦れよ!って後押ししてもダメ。
不安が起こらないです、、、

シフトが起こっても、怒ったり、悲しい、ガーン!って感情はわいてくる
(最近は、ほぼ一瞬で消え去るようになった w)
けど、不安と心配は湧かないので、

シンプルで自然な感情ではないんですかねー 
確かに、子供の頃って先に対する不安とかなかったかも。

ヨガの人たちの「今この瞬間しか存在しない」という言葉によって、
「先のこと考えて不安になってもしょうがないっ 前を見ましょうっ オレっ」
みたいな、
キラキラストーリーでは、一時的に楽になったような気がしたけど、
(これ錯覚だったよ、残念!)
今みたいな、完全なアホにはなれませんでした^^;

今は本当に馬鹿になったか、脳みその病気かも(ちょっと疑ってます、、笑)ってくらい、
先のことが何も考えられない。。。
考えが起こっても、一瞬で消えて、次の瞬間には忘れてしまう。

あ、そうか、
「不安」というものは未来に対して起こるもの、
でも「個人」の存在しない「非二元」の現実において、未来は存在しない、
(個人=時間軸の中でしか存在できない。個人が消えたら時間軸も消える。)
それゆえ、
不安というものも存在できなくなってしまうのだねー


心配に関して起こったことといえば、
インドに着いてから、熱が出て、1週間くらい下痢していました。
水を飲んでも、お腹が痛くて、がんばって食べてもぜんぶ出ちゃうって状態。

その時に友達に
「マラリアかデング熱の検査をした方がいいかもね」
と言われて、ひとまずネットで、それらの情報は収集しつつ、
口では「心配だなー」と言いつつも、
実はまったく心配してなかったー^^;

心配する前に、もう「心配だなー」ってテキトーに勝手に口が言ってる感じ。
「え?心配って言ってたいま?気付かんかったー」みたいな^^;
周りの方が心配してくれて、気にかけてくれたおかげで、
家で倒れて意識不明で発見される、、、
というよなことは起こらなかったです。

薬飲まず、治しました、とさ。
肉体に関しての深刻さも減っちゃいます。
(もう大丈夫やろーって、チリ入ったインド料理食べたせいで長引いた恐らくw)

ホメオのレメディは取ってたから、ちょっと効いたのかな。
だいぶ痩せちゃいました、さすがに1週間^^;
すぐ戻りましたが、ばばーになって痩せすぎるもんじゃないなーと思いました 笑
とかいう言葉がテキトーに出たけど、
見た目についても、ちょっと関心薄くなってる感じ。
たぶん、
歯になんかくっついたまま外出して、歯だして笑ってること多い。 はずかしー


そういえば、
非二元とエカトーレ(エックハルト・トール)の違いについて分析してるblogを読みました。
ちゃんと彼の本とか読んでないけど、
エカトーレは方法論を言ってくれてるみたいですね。

個人はそこに救いを感じるんだろうけど、
非二元って、
「あなたに出来ることは何もない」って言うから、個人には絶望的なんでしょうね、、、
おまけに人生は無意味。価値がない、なんて ^^;
「今まで頑張ってきたことは何だったのー!!あんなに悩んだのにー!!」
って個人には青天の霹靂さ。

まだ行ったり来たりしてる感覚で、居心地悪い不自由な感じが起こってたとき、
「うわーん(>_<)バガヴァーン!アルナーチャラー!助けてー!」
と、
前みたいに思ったとき、はっとしました。

助けを求める相手もいない、、、
その時、K氏という個人は絶望しました。 すごい落ちました。
ある意味、すごい厳しいのよ、「非二元」。
(あの絶望したことが、ほんの数週間前の話だけど、ずいぶん昔に感じる!) 

そういう時、エカトーレの提示してくれる方法論は
救いに感じるんだろうなーと。。
一部だけ読んだけど、ほぼ瞑想でやってきたことと同じだなーと思いました。

絶望した個人には、「非二元」について想像すると、
世界は全然おもしろみのないものなんじゃないか、と思い浮かぶようです。
だって、
ぜんぶ無価値、無意味、大事なこと特別なことも何もない。


余談ですが、
「大切な人」って友達に言われ、
「え?誰?^^; 大切な人ってなんだっけ? えーっと一般的に家族とかか?」
本気で、こういう思いが湧いてきて、
こういうふとした瞬間に、小さな変化に気づきました。


話をもどして、
おもしろみがない、とは、なんだか違くて、
実際、シフトが起こると、逆。

ぜんぶ無意味で無価値なんだけども、世界が輝く、
というか、軒のみな言い方ですが、一瞬一瞬が奇跡であり、感動、興味深い、おもしろい。

色んな表現があると思うけど、
K氏と名前をつけられた、この肉体の目にうつるもの、体験していることとしては、

草木が風に揺れる様や雲が動く様子、
毎朝太陽がのぼることとか、
自転車で走る早朝の空気感とか、、、

そういったことが、人間よりももっとリアルに映るようになりました。
人の形をしたそれらよりも、よりくっきりしてて興味深いというか、、、
言葉にすると別物ですな。

人の形をしたそれらを見ると、
空っぽだなー とか ぜんぶお笑い小劇場だなー
とか、そういう感じがわいてくる。
友達は、「幽霊が歩いてるようにしか見えない」って言ってましたよ^^;


そういえば、
脳科学者と「非二元」のスピーカー、大和田菜穂さんとの対談の動画で、
「人間が思考する0.5秒前くらいに、すでに行動が起こってる」と言ってました。

なーんだ、科学的に証明されてたんだなぁ~
「私」が、これしよーっと思ってやるんじゃなくて、
これが起こってから、
「私」が自分の意思でこれを行ったと話を作ってただけなんてー



次回、初めて「ノンデュアリティ」のメッセージに出会ったときの話でも、、

また読みたい、と思いましたら、
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2018年1月30日火曜日

悟ってしまったらしい件②

たまにミールス(南インドのランチ定食)も食べるけど、
ローカルのはまま辛くて、白飯を隣のおやじばりに食べちゃう^^;

こにゃにゃちは。
健やかなるままにお過ごしでしょうか(^^)
毎日があっという間。
また、思考をキープできない状態に入ってきてます~

山に登ってる時、わかりやすく、それでいて詩的な、
すっごく良い表現が湧いてきたのになー、、、

いつ寝て、いつ起きたんだから、
眠っているときの夢と、今まで疑い無かった現実とおぼしきものとの間に、
どんどん境界がなくなってきています。
朝起きたら、すべてが新しく、なんだか物珍しい。
赤ちゃんの視点ってこんなだったのかな~

とにもかくにも、
ぜんぶ夢、幻想だ(^^)

※このブログはすべてフィクションです。


この「ぜんぶ」を、ノンデュアリティ(非二元)のスピーカー達は、色んな言葉で指し示します。
例えば、
日本人では有名な「大和田菜穂さん」は、「無償の愛」とか「ライフ」と表現します。
「じゅんころさん」は、「これしかない」とかで指し示してました。
エックハルト・トールは、「空間」とか。

大御所の、トニー・パーソンズは、字幕付の映像を見つけられず、
まだ本も読んでないんですが。。

確かに、それしかないそれは、「愛」だし「生命の源」だし「空間」、「全体」と呼べる。
「神」、「真我」、「アートマン」とも呼べると思います。

「其れ」っていうのがしっくり来るけど、
なんだかロマンが足りないので、ここでは「リーラ(神の戯れ)」とか呼びたいかなー

「愛」っていうと、どうしても、「じゅてーむ(^з^)」みたいな甘いイメージでなんだか照、、、
でも実際、「愛」しかないんですけど。



ニッポンは寒いんでしょーーーなーーー

エネルギーのシフトが起こる前は、
寒いのが苦手だから冬はインドで修業したらちょうどいい!って思ってたけど、
今年はインドいっかなぁ、、、日本の情緒深い冬もまた、いとおかし、やもんなぁー
と実は思っていました。


これも小さな変化のひとつ。
寒いのは寒いんです。
苦手は苦手なんです、この身体、すげー寒がり。
ただその寒さに前みたいに、「イヤ」がくっつかない。
「イヤ」だと思う人がいなーい(^O^) わーい 笑

シフトしてから、愉快なことが多くて困ります。
アシュラムとかで大笑いしそうになる。

「私」がいなくなった副産物に、ふとした瞬間に気づくので、
これまで苦手だったこととか試して、どんなことが起こるか興味深いよね、
なんて、
悟り友達(笑)と言ってたんですが。

あ、そういえば、
ログのタイトルだからキャッチーで面白いかな~って「悟り」っていう言葉を使ってみましたが、
「悟る」ということは起こりません。
なぜなら、、、、

悟る「人」がいなかった!!!  笑!!

これが明らかになったとき、いったい何人の人が笑っただろう!と想像してまた笑える!
そうだ、
明らかになった時には、笑う人もいないんだった!! 再び笑えますね。。 
考え始めると、脳みその許容範囲をこえてるのか、
気が狂いそうになるので、やめた方がいいです。 ふふ、、、もうやったよ。

今日は興味のなかったことの一つ、
「インドでミュージックコンサートに参加する、の巻」 という物語が起きました(^^)

ここティルヴァンナマライでは、
外人が多いシーズン、よくバジャンや音楽の催しが行われております。

「K氏」は、こういう集まりが苦手、、、
というのも、みんなノリノリで手を叩いたり、ビートを刻んだりするじゃないですかね。
そういうの、恥ずかしいっ(〃д〃)
うまく刻めないっ

↑ みたいなとこがありまして。
でも、今日はなんか楽しかったー(^^)
本気インド音楽だったので、迫力がすごい!!!
インド人ってやっぱすごいです、もう血ですよね。
音楽だって、自分の生涯をかけてやるもの、心構えが違います。
師匠は人生そのものの先生。

一曲目では、魂がふるえるって表現できるのかな、、、
(魂ないけどw そもそも見たことないのに今まで信じ込んでたのが謎、、、)
涙が出そうになって、身体がかーっとあつくなりました(^^)

そういえば、こういった高揚感とかが、持続することがなくなりました。
いつもの、何もないけど愉快(^^) 同時に常に静かでリラックス、っていうのにすぐ戻る。
興奮冷めやまぬ、はなく、興奮いっしゅんで冷める、みたいな 笑

だから、
今回いってみて思ったのは、
こういう高揚感とか、目に見えるものや瞑想の一時的な恍惚感、神秘体験とかで
喜びを得たい、
そしてこの一時的に幸せな経験を後生大事に自分のものとして取っておきたい、
という人には、
「非二元」の現実は、ぜんぜん必要ないかと。

ただそこに、
苦しみからの解放、絶対の自由はないです。
わからないことは相変わらずたくさんあるけど、
これだけは確か。

もうひとつ絶対なのは、
瞑想しようがYogaしようが、苦しい修業をしようが、
シフトが起こることに、なんら因果関係はありません。
シフトのために、我々ができることは何もありません。

「K氏」も実は、シフトが起きたとき、
ラマナマハルシの教えちょっとさぼっちゃお、忙しいし~
って、
怠け心のままに、とあることをしていたら、シフトが起こってきてました。
この、とあること、に関してはネタとして面白いので、
ここではシェアしません、直接お会いした時にね(^^)

パッと一瞬で起こる場合もあれば、緩やかに起こってる場合もある、
とは、エックハルトが書いていました。

どうせ因果関係ないんだから、
「K氏」と同じことしたって、起こるか不明ですし。


うーん、、、なんか本当に色々と覚えてられなくて、
書く時に困る、、、

ネタになりそうなことは、覚えてろよ!って印象づけるよう頑張ってるんですけどねぇ、、、
まーでも一番おもしろいところは、伏せてますけどね、いつも(^^) ふふふ、、、
直接会った時に聞いてくださいね。



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次回、予告 ↓
呼吸する、ご飯たべる、おしっこする、
と同じに、特に価値はないんですけど、
「K氏」の個人的体験を次は書こうかなーと思います(^O^) 
シフトが起こった時に、世界がどう見えるか、など。

悟り友達の話聞いてると、表れ方が違うのかなーと思ったり、
でも言葉の表現のしかたが違うだけかなー、、
友達は「世界が消えた。そこの壁もないでしょ?」って言ってました^^;

壁はよくわからなかったので、
壁あるかなぁって考えてみた、その結果、、、
次回に続く、、、

かもしれない(^^)






2018年1月26日金曜日

悟った人に会いに行ってみた件②



こにゃにゃちは。
ちょっと色んな予定が入ってきてて、
買い出しとかにも時間かかるインドだもんで、
時間がない。

おっと、そう、時間って本当は存在しないんでした^^; 概念だけで実在しませんー
おひとり様でぼーっとする時間も、愛してるから、
なんせ書く時間が足りませーん。

とっとと終わらせますね、このエピソード。
はよ書かな忘れる。
最近は、
昨日のことがもう何十年も昔のことみたいに、ぼんやりしてて、
現実味がぜんぜんありません。
昨日会ったあの人は、本当にいたんだっけ?夢だっけ?どっち?
という感じ。
たまに、脳みその病気かなーって思っちゃうほど記憶が薄い^^;

記憶という形で、この瞬間、思考が起こってるだけなので、
過去に現実味がないのは、当たり前のことかも。
過去の思い出を保持する人物が、どこにもいないいのですから^^


ここ南インドのタミルナードゥ州、聖なる山アルナーチャラのある、
ティルヴァンナマライは、日本でもおなじみの(ちがう?)聖者、
ラマナマハルシで有名な場所に御座います。

ですので、
世界中からスピリチュアルシーカー(精神性を探求する人々)が集まって参ります。
短期の旅行者にはあまり知られてはおりませんが、
ラマナアシュラム以外にも、聖者のアシュラムが幾つかあり、
今でも、
ジーヴァンムクタ(肉体を持ちながら悟った人)として崇拝される聖者もおり、
聖者たちのサマーディ(お墓)など、パワースポットがたくさん点在しております。

探求者たちは、各々の性質にあったアシュラムや聖者の元で、
思い思いに修業に時間を費やしています。

外人がたくさん集まる今のシーズンは、
「サットサン(聖なる集い)」があちらこちらで行われており、
日本ではあまり知られてないかもしれませんが、
ワールドツアー(アイドルかっ^^;)を行っているような有名な覚者もやってきては、
サットサンを開催する、そのようなことが日常的に起こっています。

以前のK氏は、
「いや、私はバガヴァン(ラマナに敬意を示して、ここでは皆がそう呼びます)の
 教えだけで十分。アルナチャラが先生だ。余計な情報は心を惑わす」
と頑なに、サットサンなどといったものに参加したこともなかったんですが、

前ブログの通り、
もはやこのK氏、死にぞこないの役立たずと化してきておりますんで、
言われるがままに、ひとつのサットサンに行ってみたのでありました。

単にヒマだったのと、
自転車借りて、るーらるーら♪したいなー良い季節やもんなー♪っていうのに
口実をつけたかっただけかも。

予想通り、
自転車での、サドゥストリートドライブは楽しくって仕方ないものでした(^^)
陽気なサドゥーたちに、
なましヴぁーや~ はりおーむ
ニコっとすると、向こうもニッコリ。
これも南インドの好きな風景のひとつ。

家もなく、道路で寝ていたって、
食いっぱぐれないし、悠々と過ごせる、これは南のあたたかい空気、(今けっこー寒いが、、)
豊かな土地柄なのかなーなんて思います。   事実は知らん。わしはインド人ではない。


さておき。
それはもうご機嫌で、覚者の元へたどり着いたK氏、
その覚者と聖なる集まりをするその場所は、とても清々しく開放感あふれ、
真白の壁に大きく開いた窓からは、
アルナチャラがどーんと見え、その下には花々が咲き蝶が遊ぶ、
という最高のロケーション。

瞑想キター!
って感じ?(^^)

そう、瞑想って、勝手に起こってるものだったんです。(っていうか全てが、だけど^^;)
だから、
いま私めーそーしてるー してたー とかって出てこない。

瞑想が深い、とか良い瞑想、とかそういう発想がもうないです。
目を開けてても、閉じてても、同じ。
だって全部、同じ! 同じに無意味なんやもん! 笑   

例えば、
シフトが起こってから、
生活費かせぐため&ヒマつぶしのパートも、もう瞑想。
瞑想が勝手に起こる。
瞑想する人(私)は存在しないし、
それを観察していたり、気づいたりしてる人もいない、
瞑想しかない、とも表現できるのかも。


この日の悟った人は、
Sharada Maというアメリカ在住のインドの方。
(検索したらヒットします。)

お話を少々と、瞑想、あとは「トランスミッション」(エネルギーの注入みたいな?)
英語は1/3くらいしか聞き取れなかったけど、
Maと座っていると、
頭の中に空白だけが押し寄せてきました(^^)

もはや、思考が起こっても気にならない、
同時に静けさが在るので、
頭の中が空白だろうが何だろうがどっちでもいーんですが(笑)、
やっぱり聖者ってそういうことを(あくまで見かけ上)起こせるのだろうなーと思いました。

はっ
そういえば、その日のハタヨガしてるとき、
すんごい身体、軽かった。
食べたものの消化もよかったような、、、?
因果関係がないから、Maのおかげかは不明ですけど。


あくまで、
前にも書いたように、一時的な体験に意味はありません。

そういう不可思議体験は、
いくつかここで起こりましたけど、意味ないんです。
こないだもありましたけどね、神秘体験。
おもしろいけど、意味ない^^;

だって本当のところ、なんにも起こってないんだもん^^;
だってだって、そもそも体験する人物が不在なんやもーん。 なにも起こり得ない!
そして完璧に起きてる! 
頭おかしくなる夢の話で、笑うしかないですね(^^)


目をあけていても、閉じていても、
瞑想状態に導いてくれるっていうのは、心地好かったです。

一時的なものは、シフトになんら関係ないけれど、
心地好いのは好きですよねー 誰でも(^O^)
好き嫌いの好みとか、性格は残ります、シフトが起きても。

K氏もそうだったけれど、
ラマナマハルシなど名だたる聖者のように、
「悟り」って、聖人君主が完成するんだと思っていました。

でも、この自我といエネルギーの消失、エネルギーシフトでは、
聖人になる、といったことはありません。
ラマナハルシと表現されるその人に、起きたことがどういったことか、
わからないので、このシフトと同じかはわかりません。

うざいもんはうざいし、不機嫌なときは不機嫌が起こる、
子供になったみたいな感じ、と表現できるかもしれません。

すぐ忘れるし、むやみに愉快なことが多い、
そういえば、偏見とか決めつけはないかも。。。
この人はこういう人だから、っていう発想は湧かなくなったような、、、

シフト(究極の自由、安心感)とはなんら関係なくても、
良い悪いは存在せず、起こっていることはただ完璧。

「 あるがまま 」
バガヴァンが、こう言うしかなかったことに深く頷けます。
「 あるがまま 」


聖なる人を必死で追い求めて、
自我のエネルギーを強めるエサにしないならば、
悟った人に会いにいくのは楽しい気がします(^O^)

でも別に、自我にエサをあげてもいい(^^)
自我というエネルギーが、今そこで起こっているならば、
それもまた完璧な表現。

ちなみに、
「非二元」の現実において、因果関係はないから、
どんだけ聖者に会おうとも、
エネルギーのシフトが起きるときは起きるし起きないときは起きない。

待つことも、委ねることも、信じることもできない、
自由意思は存在しないから。
なんにも出来んやん^^;

はーい、これも自我にとって残念なお知らせねー
ノートとって肝に銘じてくださーい 笑


もう喜んで死ぬっきゃないなーって開き直ったら、
K氏の絶望は、出てこなくなりました(^^)

そもそも死ぬ人なんて誰も存在しないんだけども 笑


※ この話はすべてフィクションです。



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どうでもいいことなんですけどね、
面白いから、くまりちゃんを上位にやってみて~ 笑






2018年1月25日木曜日

悟った人に会いに行ってみた件①



こにゃにゃちは。
お元気にお過ごしでしょうか(^^)
こちら、インドという夢の中で、毎日元気&愉快に過ごしております~

※このブログはすべてフィクションです。


なんか笑いが出る。。
めんどくせーうざーってことは、しょちゅうかっちゅう起こるんですけどね。。
インドですから。

しかし、
早朝にお寺へご挨拶にうかがったら、
よく会うおじさんが、ほらよってプラサードのお花をくださったり、
山で朝日を拝んでるとこを勝手に写真に撮ってプリントアウトして渡されたり、
美しいことや愉快なことも多々ありなん。

どっちも同じに笑えます(^^)
だってどっちも、夢の、幻想のお話なので。。。

これまで疑い無く現実と信じていたことが、
がらがらと崩れ去って、「私」は、過去の思い出も、未来への期待や不安も、
なんにも持てなくなってしまいました。

否、
正しくは、

それらを所有する「私」が元々いなかった。
喜ばしいことに「私」は、今やほとんど死にかけています(^^)


このトピックでブログを書こうと思い立ったのは、
この「私」という感覚が不在な時と、すごく存在感が有るときと、
行ったり来たりして、
疑問がたくさん湧いてきたり、居心地わるーい不安な感じになることがあったからなんですが、
今や、
それもほとんどなくなってて、書く気も失せて来てる^^; 笑笑


ラマナマルシだったか、ニサルガダッタだったか、
「喜んで死ね!!」
とおっしゃった意味がよくわかります。

このブログでも、
「非二元」に引っ張ってくれた人や本も紹介しようと思っています~
今、友達から借りて読んでる本は、
「 早く死ねたらいいね! 」
洒落がきいてて、かなり笑える一冊です(^^)


時間と空間がないため、
過去が存在しえない「非二元」の現実では、
カルマ、(ここでは「因果」として使います。)
そうカルマも存在し得ない。

物事に因果関係がない、というのも「非二元」の現実。
だもんで、
はいここで「自我(個人)」には非常に残念なお知らせで~す、ノートとっとくように!

このエネルギーシフトに対して「個人」ができることが何も無いのです。
努力も、プラクティスも、瞑想も、信じることも、祈ることも、
やってもやらなくても、どっちでも、とのこと。 
ま じ か (;° ロ°)(←自我の心の声)

「私」がリアルとして信じてきた、この現象界は、
悲しいかな(自我にとって)、
ただ無意味に、身体や思考や感情や物事が、淡々と起こってるだけ。

悲しいお知らせだよね、、、
あたしゃ(個人としては)、絶望の真実でしたよ、、、
インドくんだりまで来て、一日中、瞑想に時間を費やしてたんだもんよ。
いったいヨガのクラスに時間とお金、いくら費やしただろうか、、、
世界一周の旅とかできたんじゃなかろうか。。

突如、
そこでシフトが、ただ起こるだけ。
ねー もー 完全に、戯れ^^; 神様の悪戯でしかないよ、、、ひどいや。
インド人が「リーラ」と呼んだ気持ちがよくわかる、いま、、、^^;


原因と結果という「因果関係」がない現実なので個人にできることはないはずなんですが、
この「非二元」の現実について話している人が、
「この現実についてのメッセージに触れていると、なぜか何かが起こる」、と言ってたんですねー

それで試していたわけですが
(また悲しいかな、個人の自由意思というものも存在し得ないので、
 誰かが試したわけでなく、正確には、こういうことが起こっただけ)
起こりましたよ(^^) 
(ー でも同時に、実は何も起こってないんです。ふふ。頭おかしくなりそうですね 笑)
ていうか、これが一番てっとり早いんではないかな~

「非二元」の大御所、エックハルト・トールは、
(確かドイツ人。
 インドに来てから興味もったので、まだ本など読んでないけど、
 最近では、ラーマクリシュナのアシュラムなど、大きいとこでも彼の話を取り入れているそうです。
 ラマナアシュラムで、公式にサットサンをやった唯一の外人とも聞きました)

思考を観察する、など方法論も伝えてくれてるみたいだけれど、
ほら、K氏ときたら、怠け者なので^^;
メッセージ聞くだけとか、ちょろいじゃないですか 笑
私は聞くだけ、読むだけ派。

あとは、直に会える人ならば会う。(←今回のネタですね)
話の内容うんぬんより、そういう人の形をした現れは、
それが完全に自我を消失し、ただ「其れ」として起こっているものならば、
同じところに、引っ張ってくれるから。

これがきっと「グル」の始まりなんでしょうね。
「其れ」からすると、グルも弟子もいないもんで、(そんなもん存在したら二元となる)
ラマナマハルシは、自分に弟子はいないって言ってたみたいですけど。



いやはやしかし、
絶対!現実!と信じていた世界が、リーラ(神の戯れ)でしかないって 笑
つまり、
大切なものもなにもない、人生に目的もない、人生で起こるすべてが無意味、ってこと。
個人としては、死にたくなりますね~
はい、喜んで死んでください 笑


「個人」という主体が存在し得ない「非二元」の現実では、
「死」=身体とマインドの所有者は「私」である、という個人の消滅、
「自我」の死を意味します。
これ知ったとき、死ぬのうれしいなって思いました。

これまで瞑想してきたのは、
この「私」の所有する、マインドの浄化のため。
マインドから出てくる色んな感情、
悩みや不安、心配に憎しみ、羨望、欲しいものが手に入らない葛藤などなど、
加えて、
輪廻転生により、すっかり癖になってしまったマインドの習性、
(非二元では、輪廻も存在し得ません^^; これインドで受け入れられんだろうな~)
これらから自由になりたくてのスタートでした。

自分が死にかけてみて、勘違いに気づきました。
マインドで起こることに意味(良し悪し)はないので、マインドに意味付けをしていた個人の消失、
こっちが起こらないと意味がなかったっていう^^;
だからまあ、これまでの瞑想の方向性は、勘違った方を向いてたようです。


簡単に言ってしまえば、「ただいつも幸せでいたい」「心穏やかでありたい」、
人間の探求は何でもここが原点だと思います。

だから、お金や物や地位、結婚や子供、恋愛のパートナー、
目に見えるものに幸せを求めることも、
スピリチュアルなことに幸せを求めることも、
結局は、同じなんですよね^^;

目に見える世界では無理だー、と、探求の矛先がスピリチュアルな世界に置き換えただけで、
ここからすれば、なんら変わり無い。


おおっと、
前置きが長くなりすぎたので、
賢者に会いにいったエピソードへうつります。

概ね、
「非二元」の現実はこんな感じです(^^)
色々書いたけど、かなりシンプル。
「私」がいなくて主体(私)&客体(その他)っていう「二元」が成立せず、
「其れ」しかないので。


それでは、「くまりちゃん、インドで賢者に会いにいってみた、の巻」
スタート!


と、
いきたいとこですが、疲れちゃったー。。。^^;
記憶のあるうちに書きたいんですけどねー
これもただ起こってるだけなので、仕方無し。
我に自由意思なし。
ってことで、お後がよろしいようで~、、、   たはは


次回に続きます。。。   。。たぶん。




つづき気になる!
という場合は、「ヨ ガ」バナー、クリックよろしくでーす →

がんばって書くかもしれないし、書かないかもしれない。。
すべては神の戯れですから~ 笑


、、、非二元って、責任逃れというか好き勝手だよなーと思いません?
じゃあ、好き勝手、好きなことだけして生きていーんじゃん!!世界、幻想なんでしょーって。
でも忘れちゃいけない、
それに関してすらも、我々に自由意思は存在しないのです。
だって「我」がいないから。



2018年1月23日火曜日

悟ってしまったらしい件


こんにちは(^^)
お元気にお過ごしですか。
毎日意図せず、3時過ぎとか4時過ぎとかに起きてるようなんですが、、、

こうなって来ると、どっからが夢でどっからが現実かわからなくなる。
アルナチャラならではらしい現象が起こっています。
「自我」の存在しない現実では、
肉体が眠っている時にみる夢と、
「私」たちが信じているこの現実は、なんら変わらない夢だとは、
数々の覚醒した人々が言ってはいることですが。

ラマナマハルシは、
寝てる時の夢との違いは、ただ連続性の有る無しか、と言ってますね。

ノンデュアリティでは、「個我」にとって連続しているように見えるだけで、
実際は、瞬間瞬間が新しい夢なので、そこに因果関係はなく、
何かしらの法則(運命とか)を「個人」が後付けしてる、と言います。
(それらのアイデアも全て、起こっているだけ、なんだそうですが、、、)


今回も、「K氏」の夢の話を記録しようと思います。
どうも「私」、悟ってしまったらしい、、、
そんな夢を見まして。

夢には時間が存在しないことは周知のこと、
過去がないから、記憶もどんどん砂の城のように、
つかもうとするとハラハラと崩れ去って、持っておけないでいます。
昨日のことが、何十年も前のことみたいに現実味をおびない。

この夢について、いくつか疑問を持ったとき、
似たような夢を見ている人たちがYouTubeでお話していたのですが、
記憶がほとんどない、と皆さん言うんですね。
なので、
覚えているうちに書いておくことにしました。

この夢の始まり、夢だけが起こり始めたのはたぶん、屋久島にいた時。
正確には、もっと前からちらほらと夢が現れることがあったのかな、という出来事も覚えていますが。
顕著なのは、このブログでもときどき書いていたように、
ヨガを教えることにほとんど興味がなくなった、ということ。
興味がなくなったというか、そこにこだわりがなくなったというか、そんな感じ。


いつからか、このブログ、ほぼストップしましたよね?
あれって、思考をキープできない状態が起こっていて書けず。
これネタになるなー書こっかなー、と思いついたことが、消えてしまっていって、
自分の意思では、キープできなくなってしまっていました。


この「私」の夢のことを、世間一般では「ノンデュアリティ」と呼ぶ人が多いようです。
Non Dual ふたつではない。
「いちなるもの」と言うと、2の存在を認めることになるため、このように言うようです。

すっかりやめたしまったヨガのお勉強、アドヴァイタヴェーダンタとかも、
同じなのかなー   やめちゃったから知りませーん。
ザックリでいいので、ちょっと気になる。  あくまでザックリ(笑)

屋久島で暮らしているあいだ、いつものように思考が浮かんできて色々と
この「K」さん(クマリでもカナコでもどっちでもいいけど)は考えていました。
忙しい時もあったけど、パートを始める前とか、信じられないくらいヒマな時もあって、
お金もないから遊びにも行けないし、友達もいないし、
(ガソリン代が高くってー。遊ぶのにお金がかからない、という意見もあるけど、
 それは一定収入ある人の意見だよね、だって山登りする登山口まで車で1時間以上かかるとこばーっかりだし)
ただ、
無駄に思考の渦の中にいて、自分の考えに疲れることしばし。

で、
この「K氏」、あるとき考えに考えまくった結果、ひとつの結論に達しまして、

人間がしている行為のすべては、自分のためであって他人のためとか社会のためとかなくね?
だって、
日本で人助けと信じてやってる行為が、実は地球の裏側で子供を搾取してたりして、
ぜんぶがうまく幸せなんてこたーありえんことやん。
自分が永遠のヒマの中にいる、ということに気づくのを恐れ、
その事実に気付かないために、忙しくあれこれやってるだけやん、
おそらく病気とか悩みもしかり、悩んでる間は、そのことで必死やもん。

なーんだ、人生ヒマ潰しだったー 
わたしもヒマだから、働いてるのかー、 ヒマ潰ししてお金もらえるとかラッキー☆

みたいな思考が夢の中で、起こったようでして。
それから、「嫌なこと」が少しずつ減ったような記憶があります。
てっきり、
毎朝の日課、フラワーエッセンスの「レスキューレメディ」が効いてきたんだと思っていましたが。

それでもしばしば、
仕事いきたくないなー 今日はやりたくない仕事がきそうだなー ぜったい忙しそー やーだー
とか思うこともあって、
特に台風の日に出かけて、外作業があるときの憂鬱さったらなかったね。

そういった時、無意識に、
「でもさ、ヤダっつっても、やらないかんわけよ。
台風きとるわけで、他にやる人おらんし。じゃあヤダって思うのは時間の無駄じゃね?」

みたいな自問自答が内側で起こっていたような。。。
そしたら、
不思議と「嫌だ」という気持ちが、仕事から離れてって、ふわふわーと消えてなくなったのを覚えています。
そのうち少しずつ「嫌だ」というのが現りつつも、こっちまで来なくなって、あとはもう仕事(行為)だけが起こっていたような感じ。
つまり、仕事(行為)に、嫌だっていう原因はないんですよねー なーんだ。

今年、
屋久島には台風が4,5回きたんですが、そうなると家で缶詰、
ひどい時は3ー4日、出れないこともあり、一人暮らし(ワンルームだし)は誰とも口きかず、、、みたいなこともありまして。
前だったら、「わーーー!!外に出してーーー!!!ひまじゃー!!」

ちょっと鬱気味?頭おかしくなりそう?とにかく気分の良いものではない状態になるところ、
最後の方の台風では、いつもと同じ感じで過ごしてて
レスキューレメディすごいなぁ、と思ったものです。

そうこうしてるうちに、秋。

ゲストハウスの方の仕事が終わりに近づき、
別になけなしのお金をはたいて車を買ってまで屋久島に住みたい情熱もないし、
引っ越しもめんどいしー、などなどあり、
パートも辞めて引き上げることにしたんですが、
パート先から、だいぶ引き止められました。
良い条件で話をもらったりして。 ありがたやー
(ボーナスのある生活に心が揺らいだことは確か。職場の人、全員が全員、良い人だったし。)

ここで言いたいのは、この夢の登場人物「K」の優秀さではなく、
マインドのない状態で、仕事だけが起こっている時に、良い感じで仕事が為される、という
バガヴァットギーターの教えの真理を思ったりして。
そう、個人(私)の不在、というのが、なんかスムーズみたいなんです、幻想の(夢の)人間社会では。
パートの仕事してて、やっとバガヴァットギーターの意味がわかったですよ 笑
(正確には、良い感じで仕事が為されない場合も起こり得るけど、それもパーフェクト。
 仕事の失敗を気に病む個人の存在は幻想なので)

「カルマヨガ」ってのは、給料もらわないで行うボランティアの仕事のことではないですよー 
無為の行為。 
つまり、行為者がいないまま起こる自発的行為。
これって自発的に起こるから、「カルマヨガ」やろうって発想が誰かにある時点で、
(やろうって思う誰かがいる時点で)
その仕事を、カルマヨガではないものにしてるっていうジレンマ。
ラマナマハルシも言ってるー 
カルマは自発的に起こる、つってねー
(ボランティアやろうっていう思考は起こるかもしれないけど、誰に対しても起こらない)

そんなこんな、
ぜんぜん興味ないパートタイムの仕事だったけど、なんだか楽しかったし、
暇つぶしで褒められて、
お金までもらえて、ていうことが起こったり、
日常の中で、そういう、ごく自然な、小さな変化が起こっていました。

あくまで「K氏」の夢の中で。

つづく
(かもしれない 笑)



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もはやヨガでもなんでもなくなってきたけど^^;



2018年1月3日水曜日

わたしの悟り体験談



新年あけましておめでとうございます!
ご縁あってどこかでお会いしましたら、よろしくお願いします(_ _)

はてさて今年もインドで迎える新年です。
なんのことはなく、アルナチャラから初日の出を見ました。
この数年の恒例です~
で、
もちのろん朝からスパイシーなインド料理を 笑

前もって言うの忘れてましたが、ぜんぶ夢の話です。
インドにいるのも、元旦の朝、「ヘイ、おやじ!サンバルおかわりだ!」と
イドゥリやらワダなどのティフィンをたらふくいっぱい食べたのも、ぜーんぶ夢まぼろし。

今日は、ちょっと昔みた夢の話をしようと思います。
たまたま「K氏」、思い出しまして。
「自分」が消えちゃった=自我の消失が起こった人たちは、
(実際には人はおらず、正確な描写を言葉でするならば、
自我というエネルギーの消失した個体に見える一部の表現、とか? 長いのでここでは人とします。)
「一瞥体験」(いちべつたいけん)をしてる人が多いようなんですね。

なりたてスピっ子(スピリチュアルっ子)の「K氏」は、
一瞥とか知らんかったし、読めんかった難しくて、この漢字。

それで「K氏」は夢の中で、思っていました。
私には、そういった夢は起こらなかったなぁ、、、と。

ところが、ある朝、いつものようにアルナチャラを歩いているときに、
ある記憶が湧いてきまして、
それは10年以上前の夢。
このブログでもその夢の話をずいぶん前に書いた気がしますが、

ヨガを始めた頃だったかな、東京で鬱っぽい状態になっていて、
もう仕事も辞めてしまっていたと記憶してるんですが、
ある朝、
杉並区のデザイナーズマンションにて。
起きて、さあ何しよう、ヨガのクラスに行こうかな、毎日つらいな、ああ今日もつらい、
ああ私このまま死ぬのかな、(今となったら笑える^^; 夢だから)
とかなんとか思ってた時だと思うんですが、

突然に、「いや、死ねない!」という強烈な恐怖と、
あと、
音のない世界になって、
正確には音はあったと思うんですが、とにかく静けさしかなくて、
音以外にも、なんにもなくって、
目の前にはお気に入りのグリーンのソファとかあるんだけども、
「なんにもない」、そうとしか描写ができないことが起きました。

で、
鬱状態だったから、ついに私の頭がおかしくなっちゃったんだと思い、
このままではヤバイ!キチガイになってしまう!と、
「どうしたらいいかわからない、ヤバイ状態」と電話したのを覚えています。
母は救急車を呼んで、誰かに来てもらうよう言ったけど、
確か救急車は呼ばなかったのかなー 
ちょっと覚えてない^^;

ヨガの知識でもって、この「死ねない」体験は、輪廻転生を強烈に認識したんだと結論づけていたけど、
今になったら、これが一瞥体験なのかも。
でもね、
このように、後付けで人は自分のアイデアをくっつけて、出来事を変更しちゃうわけですよ、自我は^^;

ノンデュアリティの人は、このアイデアを「ストーリー」と呼ぶ人が多いようです。
この「ストーリー」を自分のものだと思って、「自我」は自分の体験として、
後生大事にとっておこうとする、
でも、
真理において、個人がとっておけるものは何一つ存在しないから(何かを得たという満足感は続かず)、
これが苦しみになる、
というのが、ノンデュアリティのメッセージの一部のようですよ。

こうして「K氏」は無事、一瞥体験というストーリーを手に入れたのであった。

そんな夢の話が湧いてきたので、
書いてみました。
なんか面白くなっちゃって、山にいる間、ずっとニヤニヤしちゃった!

一瞥体験した人たち、これは意味ないっつってたけど、
ほんと意味ないことでした。

一時的な体験は、瞑想やヨガでは起こりやすいです。
特に、アルナチャラで瞑想していると恍惚状態に入ることが多いけれど、
それは続かない。
それでまた戻って来たいって個人は考えるのかな。。。ここに来たら奇跡が起こると。

因果の存在しない真理において、
目の前のことが全部奇跡みたいなものらしいけども、
なにか特別なものを個人のエネルギーは欲するのだそうです。
個人として存在するために。

真理において、
特別なことも、大切なことも、なーんにもないんですけどね^^;

ラマナマハルシも、一時的なものは真理ではないって言ってますし。
起きては去って消えていくもの、永遠でないものは真理ではない、ぜんぶ夢まぼろし。