Om Namah Sivaya
こんにちは。お元気ですか?
少しのあいだ実家にて、これでもか!!ってくらいコロコロ過ごしていました。
少なくとも一日一つは行うヨガ的行為(舌磨き、鼻うがい、呼吸法、ポーズ、マントラ、瞑想)をほっとんどしないでヨガに出会う前のアウトオブコントロールな生活をしていたら、顔色がくすんで毛穴がひらき、ブツブツができてしまった・・・
やっぱりヨーガの効果って大きいんだなぁと思いました。
以上のように、我が家は子どもをとこっとん甘やかす両親でして。。。そのためか、最終的に誰かに助けてもらえるっていう甘え(依存)がいつもどこかにあったんですよねー
ずっと家族と暮していたらヨガなんてなんのことやらっていう感じだったと思います。
人それぞれ、自分の闘う場(自分と向き合う場面)というところは違うと思います。
家庭の環境のなかで自分と向き合わないといけない場面をお持ちの方もいるでしょうし、新しい家族との環境のなか、仕事のなか、何か別の場面でも。
自宅に帰ったらヨーガを通して知り合った友人からのお手紙が届いていて、
『 みんな、それぞれの場所で孤軍奮闘中か・・・ と思ったら途方もない気持ちと「1人だけど1人ではない」という気持ちになれました 』
という言葉が。
自分と向き合うということは、ある種の孤独な作業ではあるけれど、ヨガの示すそれは所謂「 孤独 」とはほど遠い、不安とか淋しさとは無縁のそれなのだと思います。
ハタヨガ(ポーズ)のクラスで得られる感覚とも何か似ている気がします。
個々人が超個人的体験をしているのだけれど、それは全体という感覚になっていく。
話はそれますが、先日レッスンで、マントラにあわせて太陽礼拝をしたときのこと、まさしくそういう感覚が部屋全体を包んでいたように感じました。個々の「集中」という心地よさが全体を包んだ。
そうした感覚は、「自分さえ良ければいい」という無意識下にある感情さえも消失していってくれる。
ところで、一応ヨガの先生のくせに、こんなダメダメ人間っぷりをさらけ出していいものか?
いぃぃいんです!!(川平さん風に)
というか、私はこんなダメダメな私にもOKサインを出せるようになったから、こうして正直でいれるようになりました。もしも、「ヨガの先生のくせにダメ人間!ちゃんとしやがれっこのトンチンカーン!」と自分を責めるという形で、感情に執着があれば、こういう風にさらけ出せないと思う。
私がヨーガで教えてもらったことの一番ラッキーだったことは、どんな自分も許せる自分、それはつまり、自分の心の所有する感情にねっとりこびりつかない自由さ、ではないかと思っています。
そしてその自由を求めて、今も何かの行為をしているのかな、たぶん。
そのヒントを与えてくれたのがシータ由美子先生の一言。前にも書いたけど、
「 でも、私はダメな自分も嫌いではありません。そんな等身大でいいって思えるしね。
今日も明日も、いい日になりまように。
いい日っていうのは、晴れの日とか嵐の日のことをだよ。
つまりeverything is goodだね。 」
自由とは、「良い」からも「悪い」からも解放された状態。
「良い」があるからその対照の「悪い」がうまれるわけで。。。
「正しい」があるから「正しくない」っていう判断がうまれるわけで。
「正しい」にも「良い」にも縛られない自由さを私は求めて行為をしています。
その方法をヨーガは体系的にまとめてくれています。
ヨガが厳しいのは、その形のない原のみを教えてくれてる、というか、色づけするのは皆さん個々人。
といった理由から、各々の人生の道しるべとしてヨーガは役に立つように思います。
ひとまず肌の調子を「良い」状態に。。でもそれへの執着は禁物・・・
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