-----------------------------------------------------------------------------------------------

2010年3月15日月曜日

アーユルヴェーダ


いつものようにSita由美子講師に助言を仰いでいたら、スリランカの話に。
去年、インドからスリランカに行って帰国した彼女。
そのときは、なにがどうなってその思考回路でその旅路なのか理解不能で、
さして興味も持たなかったのですが頭の片隅には残っていました。 
 
で、さっそく読みました ↑
窓際で太陽のほうに向かってのびるローズマリーが可愛くて一緒にうつしてみました。

最初にアーユルヴェーダという言葉を聞いたのは、当時通っていたスタジオyogajayaで、
ネパール人のアーユルヴェーダ医師がスペシャルプロモーション(割引)しているからってんで
先生も生徒さんも皆して診断しにもらいに行っていて。 
わいわいクラスのあとに盛り上がっているところにワタシも隅のほうで(まだオープンmindな人々に慣れてなかった 笑)会話に混じっていたのです。
ばーた とか かば とか よくわからない言葉に疎外感を感じ、つまんないなーとか思っていた記憶。
 
その後、yogajayaでお友達になった方々とホームパーティーの際に
Sita先生が、「 せるふあびやんがでお肌がウルウルだよー 」みたいなことを言っていて
またカバとか言って全然興味ないしー!あたしはヨガだけしたいんだよーって感じでした。
 
こうして記憶を辿ってみると、ところどころに必要なものの種って落ちてるんよね、ホント。見落としてきたチャンスってたくさんあるんだろうな~ できるだけ拾いたいから浄化浄化に努めたい。
 
こんな私が今では自ら全身に油をすりこみ、アーユルヴェーダLOVEになっている、人生って不思議だけれどこんなもんなのでしょうね。 
本気になったきっかけについては、めっちゃ長くなるので割愛して。。。

うちこサン形式で感想とともに抜粋。
筆者がスリランカのアーユルヴェーダ治療を受けられるリゾートホテルに滞在したのときの体験、
および地元の人々に根付くアーユルヴェーダ医療についてざっくりって感じでした。

 
 
     ∞

ヴァータ、ピッタ、カファとは体内エネルギーのようなもので、サンスクリット語でドーシャと呼ばれている。
それぞれが違う役割を持っており、三つのドーシャが複合的に働くことで、私たちの体が作られ、動いている。

三つのドーシャがバランスよく働いていれば体は健康だし、バランスを崩せば不調を覚えたり、病気になったりする。だからアーユルヴェーダの治療とは、崩れたバランスを整えて身体全体を良好な状態に戻しつつ、自然治癒力を高め、悪い個所を治していく。たとえ悪いところが治っても、バランスを崩したままでは、また同じ病気にかかる可能性が高いからだ。
 
 
> ヨーガで言うトリグナ、「サットヴァ」「ラジャス」「タマス」と似ている。
ドーシャ(要素)は皆に常にすべて「在る」。バランスが取れたときが心地よい。
 興味のある方は コチラ や コチラ でどうぞ。

グナは、そのときの性質。サットヴァなときが心地よい。 
タマス(暗性) → ラジャス(動性) → サットヴァ(純性) と順を追ってbetterな状態になっていく。
人で言うと   怠け者 → 怒りん坊 → 聖人  って感じかしら。
シヴァナンダの教科書では、タマシック・ラジャシック・サトヴィックな先生&生徒というパターンで説明がありました。タマスな先生と生徒の例えが、黒魔術を実践するタイプだとか書いてあり、勉強しながらウケた覚えが。。。
 
グナは食べ物にも当てはまります。
熟し過ぎたもの(腐りかけ) → すごい辛かったり苦かったり酸っぱすぎるもの → 新鮮なもの
新鮮なものの分類には、フレッシュなチーズやミルクも含まれるので、マクロビオティックとヨーガの食の捉え方は共通する部分もあるけれど異なります。
アーユルヴェーダの食事はヨーガのそれをもっと細分化したって感じかなぁ。。。 
 
 
     ∞
 
体質は、受精した時点で決まるといわれる。変化するという説もあるが、基本的には、精子と卵子が出会った時の状態、母親の食の好みや行動などが影響して体質が決まり、生涯変わらないという。
 
アーユルヴェーダの医師が脈を診る際、指を3本使うのも、ヴァータ、ピッタ、カファのバランスを知るためだ。
 
アーユルヴェーダの体質は、どれがよくてどれが悪いという優劣を競うものではない。自分の体質を知るのは、ある意味弱点をすることのような気がするけれど、それは陥りやすい傾向があるというだけで、そういう傾向があるからダメという意味ではない。体調不良を未然に防ぐために、体質を知るのである。


>一日の中でもヴァータが優勢な時間、カファが優勢があったり
季節でも、ピッタが優勢な時期とかあって、自分の身体をそれに則して観察するとなかなか面白いです。
 
 
     ∞
 
~ 結局のところ大事なのは、どの体質に属しているかではなく、日頃の体調に自ら耳を傾けて、自分の体質を知ろうとすることだと思えてくる。知ろうとすることで、体調をいい状態に維持しようとする意識が働く。その意志力が自己治癒力につながる。そしてそれもアーユルヴェーダの一部なのだろう。
 
 
>ヨーガのアーサナとも共通するとこですねぇ。
自分の心身の様子をよく見て、まずは気づくところからって私もクラスのときに強調しているけれど、まず気づかないと、より良く変えていきたいところも変わっていかない。
さいしょに意識化してそれから無意識化していく作業。意識の無意識化。
 
早くヨーガのポーズに慣れたくて、腹筋ひきあげて歩く練習やってたやってたし、階段のぼるときの丹田意識も忘れずに実践してた。疲れたときは吐く息長く、呼吸の様子を見ることも意識していたなぁ。今じゃそれが無意識の産物。
そういうことだと思います。


     ∞
 
アーユルヴェーダは、病気を治すためだけの医学ではなく、病気にかからないように健康を維持する予防医学でもある。そして予防のために、最も重視しているのが食事なのだ。アーユルヴェーダの医学書『チャラカサンヒター』には、次のように書かれている。
「体は食べ物によって作られ、病気は間違った食生活が引き起こす」
「正しい食べ方をして、適切な栄養を取っていれば、薬は必要ない。正しい食生活を送ることなしに、薬を飲んでも、なんの意味もない」
 
~ 食品の栄養価に意識を奪われて、消化力に気を回すことはあまりなかった。だが、食品に必要な栄養素が含まれていたとしても、体がバランスを崩し、その栄養を受け止められる消化力を持っていなければ意味がない

~ 実はアーユルヴェーダの大本の考え方はシンプルで、感覚的に知っていることや、実に覚えのあることが多いのだった。


>最近、ヨーガの実践と美味しい水さえ摂取していれば栄養学というよりも、プラーナを感じるものであれば何を食べても良い気がしています。母親が栄養士なので、そっちの言い分もよくわかるのですけど感じることが変化中。
 
 
     ∞
 
痛かったり苦しかったりすれば、自分の体調を管理しようとするが、そうでもない限り、日本での生活は、自分の体にあまりにも無頓着だ。
アーユルヴェーダの治療は、完治するまで時間がかかるケースが多い。でも病気になる時も、時間をかけて少しずつ私たちの体の中では変化が起きているのだ。ところがあまり注意を向けていないし、なんか変だと思っても、手を施すのが面倒で放っておく。悪くなってから慌てて薬を飲む。
 
けっこう、その薬がきいたりするものだから、よけいに初期段階でケアすることを怠る。そうやって私たちはどんどん、自分たちの体が持っている「治す力」に頼ることをしなくなってきた。今は医療=西洋医療という認識が強いけれど、日本も江戸時代までは漢方医学が主流で、免疫力をつけるという考えがあったはずなのに。


>人間だけが不自然な病死をする、動物は自分の死期も知っているって沖先生の本に書いてあったのを思い出しました。
 

     ∞

帰国して「スリランカのお正月」というネタで週刊誌に売り込んだけれど、地味すぎるからと却下された。まあ、そうだろう。確かに地味だ。
珍しいもの、新しいものでなければ報道価値はないという基準は、自分自身がマスコミ報道に侵されることによって、いつのまにか私自身の価値判断の一部にもなってしまった。
地味だから、単純だからこそ、楽しくて心が休まることがたくさんあるはずなのに。そのギャップが時々私を疲れさせる。だから癒しなんてものが必要になる。


>ライターさんという立場での葛藤ですかね。
  
 
     ∞

アーユルヴェーダでは、人間も植物も宇宙もすべてが、風、空、火、水、地の5つの要素でできていると考えられる。インビテーション・ロックの上で風に包まれていると、木や花が自然を構成するのと同じように、自分も自然の構成要素で、生涯も時とともに移ろいゆく自然の風景のひとこまに過ぎないと思えた。
 
そしてこの自然の恵みに支えられてこそ、人は生きている間、健康でいられる。その緑の持っている力と使い途を知っているのが、アーユルヴェーダのドクターたちだ。

~ でも結局、こういうドクターたちにとってお金は二の次なんじゃないのか。もし、誰かを治してあげたいという純粋な気持ちより、お金が先行すれば、その時に人を癒す力は失われてしまうのかもしれない。


>お薬代のみでお金要らないっていう、ネイティブ・ドクターが多いんですって。すばらしいなー 
リシケシのシヴァナンダさんの作ったアシュラムにある病院も、未だに寄付で成り立ってるんですって。
  
 
     ∞ 

自然界から生まれた我々の体は、自然の破壊とともにだめになっていくのだと思い知らされる。
そして自然が破壊されれば心も失われていく。
星の巡りでひどい病気にかかっても、人々の気持ちが集まれば災いを吹き飛ばせるかもしれないと信じることができる人たちがいるから、ネイティブ・ドクターは何千年もの間、この国で生きてくることができた。
 
2200年もの間、菩提樹の木を守り続け、祈り続けてきた人たちだからこそ、何千年もの間アーユルヴェーダを受け継いでくることができたのだ。
自然を壊して商業主義に走れば、心は変わって行く。仏陀の教えやお寺参りや月の力、慣習と信念と文化と伝統を大事にする彼らの生活と、アーユルヴェーダが守られてきたことはつながっているのだ。
 

>スリランカは仏教徒が70%だそうです。
星の動きをとても大事にして、それに合わせて色んなことを始めたりするんですって。若い世代には減ってきているらしいけれど、旧暦みたいね。


     ∞
 
日本で会ったアーユルヴェーダ医は、いいオイルさえ使えば誰が塗ったって効果は同じだと言ったけれど、そんなことはないと思う。だって私は、真剣におまじないを唱えてくれる人のためにも、早く治さなければいけないと思う。
 
~ どうしても人を治してあげたいと思う気持ち、それはアーユルヴェーダ医には欠かせない資質のような気がする。そしてその人のためにも治りたい、と思う患者の気持ち。双方の思いが寄り添った時、効果は増すはずだ。
 
~首の周りにオイルを塗ってくれる彼女の手は、母親のようにやさしかった。本当にちゃんと治るのだろうか?という不安を取り除いてくれる手だ。人を癒すことができる温かい気持ちを持っている。


>私もアビヤンガ&シロダーラやってくれたセラピストさんに同じことを感じました。確かに彼女の手から伝わってきたし、彼女だったから、あのときのワタシの不調はみるみる治ったんだなぁって思う。
しばらく教わっていたヨーガの先生が言っていた「 90分間はみんなのお母さんのつもりで見守っている 」というのと同じなのでしょうねぇ。


     ∞
 
1日に三つも四つも用事をこなそうとする日本での仕事に比べると、非効率この上ない。だが、この国に住んでいるわけでもなく、シンハラ語も喋れない私が、効率よく動けるはずはないのだ。すっかり諦め、もがくのをやめた。必然的に滞在は延びた。
 
でも面白いことに、流れに身を任せてみると、もがいてなにかを必死に取りにいかなくても、必要なもの、私が求めているものは、順序よく向こうから寄って来た。こんな人に会ってみたい、こんなことを知りたい、と思っていると頃合よくそういう話が降ってくるようになったのである。
 
それは単純に、物事の見方の問題だったり、捉え方の感覚の違いなのかもしれないが、本来自分が生きていくペースとは、もしかしてこう在るべきものではないかという気がした。
日本での生活は、不必要にもがいていることが多過ぎる。だから疲れるんじゃないのか。もがかず前に進むのは、ノンビリしているように見えるかもしれないけれど、実はもがいたってももがかなくったって、ゴールに辿り着こうする意志が同じなら、結果は同じかもしれない。
 
だが、流れに身を任せる生活は、日本では無理に見える。日本に流れている空気そのものが、自然に逆らっている気がするからだ。でも、その流れに乗らなければ置いてきぼりを食らいそうで恐い。だから頑張る。で、疲れる。


>まったくその通り。とくに東京で生活しているときにこういう感覚↑強かったかも。
まさに、もがく&頑張る→疲れるrepeat  福岡で暮らす今はほとんどなし。


     ∞

自分は体や心に、自ら手かせ足かせをはめながら生活しているのかもしれない。本当はもっと自然に、気持ちよく生きていくことができるんじゃないのか。頭にきてイライラすることも、悔しいことも悲しいことも辛いことも、それがイライラすべきできごとで、悔しくて悲しくて辛いことなのだと、いったい誰が決めたのか。
 
この国の人たちの生活がどんなものなのか、本当のところはわからない。でも、理屈だらけの自分の生活よりはシンプルに見えた。星の命ずるままに従い、自然の声に耳を傾けて暮らす。それはとても心穏やかなことのように思える。


>こういう場所がなくならないで欲しいなぁと願うばかり。。。
 
 
     ∞


にほんブログ村 健康ブログ ヨガへ
というわけでスリランカへ行くぞ!


0 件のコメント: