はい、今回はバクティ・ヨーガについてでした。
うぅ難しかったよぅ・・・・
副読本を読んでいて面白かったのが、
ヨーガの極みに向かうには最終的にどのヨーガも放棄につきるのですが、
( ラージャ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ギャーナ・ヨガ )
捨てるって、なかなかどうして大変じゃない? しかしバクティに関しては何の苦難も葛藤もなく放棄できていくっていうのが素敵でした。
バクティ・ヨーガ、簡単に言うと「 愛のヨガ 」
講義の途中、思わずメモってあった→ 「 愛=大切にすること! 」 良いねぇ。
バクティの放棄とは、愛をどんどん大きくさせていって、それまでの小さくて個人的な愛が消える、つまり包括しちゃうってことみたい。
それが「 神 」への信仰=愛のヨーガ。
宇宙全て=神様を愛すれば、目の前の家族も恋人も含まれるから、これまで通り愛しているに変わりなく(むしろ自分の愛は大きくなっているからより深く愛せる)
他の放棄と違って難しくないっことかしらね。 バクティ、良いね~ナイスやね~
仕事のあと頭ぼんやり状態で途中から放棄気味なのが伝わる感じとなっておる、今回の提出レポートです ↓
1)なぜ私たち人間には「意識化範囲の拡大」が必要なのか。
プラナヤーマの実践を通して自分の感覚を意識化することで、自分自身への気づきを得ることができる。それはプラナヤーマ実践中に限らず、日常での無意識の行動の意識化へも繋がる。
改めて自分自身を意識する=自分をよく知る機会を得ることで、私たちはその延長線上の世界、他者のこと、すなわち宇宙の構成に気づくことができるようになる。
改めて自分自身を意識する=自分をよく知る機会を得ることで、私たちはその延長線上の世界、他者のこと、すなわち宇宙の構成に気づくことができるようになる。
それは人間が二次元的な感覚で生きるというところから、次元を超えた世界を認識する進化へと繋がる。我々はさらに進化することでシンプルな状態、自由な状態=幸福に向かうために意識化の拡大をしていくのだろう。
自分自身の意識化拡大の体験について書きなさない
ヨーガを始めて1年ほど経った2007年頃、自分自身への様々な気づきがあったことで、自分が感じていることと他人が感じていることは違う、ということを認識し始めた。
嫌なことがあるとしばらく引きずって鬱々とした気分で数日過ごすことが、ヨーガの実践を始める前はごく当たり前だった。過去を後悔したり、未来に期待をして一喜一憂する日常、他人にとってもそれが当たり前だと思っていた。
しかし常に平和な心のあり方をもって生きている人たちがいることを、また自分にも自分次第でそれが可能だとヨーガを通じて出会った人や知識で知って目から鱗だった。
数年実践するうちに、嫌な感情をもたらす事象について、それが起こった数時間後にはそれに心が捉われていない状態になっている自分に気がついた。これは常に永遠の今という時間を生きる私にとって、大きな幸福であると感じた。
同時に、宇宙には自分がどれだけもがいても変えられない大きなものがあり、それのせいで自分が苦しいのだと思っていたそれが、実は自分の構造と同じであり、変えられないと思っていたものこそ自分の心の有り様だったのだと感じられるようになった。
「私」という小宇宙は、この宇宙の自然を教えてくれるとヨーガを通して感じ始めてから、他者=自分以外の世界への理解が深まった気がしている。それは自分以外の他のすべてのものへの思い遣りに繋がったように思う。
2)ガウニの信仰と、パラーの信仰の違い
ガウニとはバクティ・ヨーガの準備の段階を差し、パラーとはその最高のもののことを言う。
準備段階では以下の訓練を実践することによりバクティへ近付く。
準備段階では以下の訓練を実践することによりバクティへ近付く。
1)特定の宗教的伝統に関する行為 (賛歌斉唱や巡礼など)
2)祈り (神名の誦唱や導師への礼拝など)
3)9種のバクティ (キルタムなど)
4)神様に対する五つの態度 (善性優位)
このガウニの段階では、以下の3つの状態がある。
第一段階:カーマ(情欲や強欲などの愛着)
第二段階:プレマ(カーマを基に神様に献げ物をしたり、分かち合う友情)
第三段階:バクティ(プレマに自己放棄の心が加わり友情を越える)
最終段階での放棄とは、神様でないものへの無執着であり、神様への深い愛着から生まれる。この放棄によって、至高の帰依=パラー・バクティへの門が開かれる。この境地ではすべてのものに区別を見ずに、すべてのものに神を見るのみとなる。
2)祈り (神名の誦唱や導師への礼拝など)
3)9種のバクティ (キルタムなど)
4)神様に対する五つの態度 (善性優位)
このガウニの段階では、以下の3つの状態がある。
第一段階:カーマ(情欲や強欲などの愛着)
第二段階:プレマ(カーマを基に神様に献げ物をしたり、分かち合う友情)
第三段階:バクティ(プレマに自己放棄の心が加わり友情を越える)
最終段階での放棄とは、神様でないものへの無執着であり、神様への深い愛着から生まれる。この放棄によって、至高の帰依=パラー・バクティへの門が開かれる。この境地ではすべてのものに区別を見ずに、すべてのものに神を見るのみとなる。
3)「愛の三角形」と「パラー・バクティ」について詳しく説明し、あなたがこうした愛の形の内、どのようなものでも体験したことのある愛の形を具体的に、いつ、どこで、私が、どのように体験したと、お書き下さい。
愛は三つの特徴を頂点とする三角形で表される。この三つの特徴がバランスよくととのったときに真の愛が成立する。
①愛は取引しない。(見返りを求めることなしに愛を与え続ける)
②愛は恐れない。(恐怖心を払拭するために愛するのではない)
③愛は比べない。(最高の理想:多くにとっては神を愛する)
パラー・バクティはマザー・テレサやアウシュヴィッツ強制収容所で身代わりになったコルベ神父の例のように、真の心、それは放棄という行為から始まる。
諸感覚器官の快楽や知性への喜びへの愛はすべて、最高の理想=神への大きな愛によって、
捨てることなくそれらは自然な形で消滅していく。
より大きな愛を育む努力によって、苦闘も抑圧もなくその愛は成長し至高へと導かれる。
自分の愛の体験は恥ずかしいので割愛。
これ副読本↓
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